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『ガッチャマン クラウズ』 は超前衛的社会派アニメだった!

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  最近、ブログやtwitterで話題の『ガッチャマン クラウズ』を見終わった。実写版ガッチャマンの便乗企画かと思ったら、まさかの直球社会派アニメ。こんな直球で現代社会に切り込んでるアニメって、『東のエデン』以来じゃないか。

 『ガッチャマンクラウズ』は、「語りたい」欲望を刺激する

 『ガッチャマンクラウズ』は、ネットで少なからざる反響を呼んでいる。俺が見始めたのも、id:samepaさんの以下の記事を見て、視聴を始めた。

ガッチャマンクラウズが面白すぎるのでまだ見てない人はOP映像だけでも見てほしい - さめたパスタとぬるいコーラ

本作はネットの一部で熱い支持を受け、それが口コミによって広まっているように思える。ネットの一部を引き付ける、その魅力はなんなのか。

 

 id:Lobotomyさんは、下の記事で、

『ガッチャマン クラウズ』を薦めたくなる三つの理由。 - 脳髄にアイスピック

 

  1. 全く新しいアニメであること(ガッチャマンの常識を破壊、SNSに着目)
  2. ヒーローとの対立軸にSNSを置いていること
  3. 先の予想が全くつかないこと

の3点を、「薦めたくなる理由」として挙げている。この整理は全く妥当だ。現代社会とインターネットという、だれしもが直面している現実を舞台にして、先の読めない魅力的な物語を展開したこと。これこそ本作の魅力だろう。

 それに加えて、現代社会においてヒーローとは何か、ネット社会で人はどうあるべきか、SNSの功罪など、現代社会についての様々な論点を提起していこと。

 また、寓話的な物語の構造が、見る人それぞれに解釈の余地を残していること。

それが、一部の人の「語りたい」願望を刺激しているに違いない。現に俺も、「語りたい」願望を刺激された一人だ。以下で、本作から見えてくる現代社会に対する処方箋について、思うまま語りたいと思う。

 

倫理と道徳なき日本社会を変えるには?

 『ガッチャマンクラウズ』が描く現代社会像は、かなり絶望的だといわざるを得ない。宮台真司氏はその著作の中でたびたび、「内なる声」=倫理が無く、「共同体の縛り」=道徳も崩壊した日本社会という像を提起しているが*1、まさしくそのような社会をアニメで描いたのが本作である、という読みが可能だ。

 そのような社会は、クラウズの暴走が始まる9話以降で、極端な形をとって描写されている。この極端な描写に説得性を与えているのは、クラウズの頭部に映し出される彼らの心の声だ。「死ね」だのなんだのという彼らの軽薄で残酷な意思表示は、ネットにおいて少なからず見られるものだ。それが、一見非現実的なクラウズたちの軽挙妄動に、恐ろしい現実感を付与することになっている。

 中村監督はインタビューで、ネットによって、初めて心の声が可視化された、と述べている*2。可視化された心の声に、その身体感覚を欠如させたまま、現実的な力を宿したものが、クラウズだといえるのではないだろうか。つまりクラウズの暴走は、ある種の思考実験であり、この暴走に終止符を打つのかが、この社会を変えるための一つの処方箋といえるのである。

 

ラスボスはどこにもいない

 その元凶であるベルク・カッツェを殺す、という方策は選ばれなかった。この理由の解釈は無数にあると思う。

 id:dokai3さんは、以下のエントリで

ガッチャマンクラウズ最終話: 一ノ瀬はじめはなぜベルク・カッツェを殺さなかったのか? - アニメとかコンテンツの雑文を書くブログ

 で、ベルク・カッツェ=悪の象徴、極限の悪で、それを薄めたのがクラウズであり、ベルク・カッツェは殺せないし、殺すことはネット社会の否定にもなる、と述べている。俺もこの意見にはほぼ同意である。

 倫理と道徳なき社会は、安易なアジテーションによって容易にカオスの渦に巻き込まれる。ベルク・カッツェは、そのようなアジテーションを(意識的にせよ無意識的にせよ)行っている不特定多数の誰かを実体化させたものではないか。

 実体化はしているものの、基本的に彼は、「見えない」ものとして描写される。累や丈を痛めつけている時は、その姿は全く映し出されなかったし、GALAX上でも、声はすれども姿は見えず。この「見えない」性質こそ、まさにベルク・カッツェの本質を捉える描写ではなかろうか。故に彼は殺せない、ラスボスは見えない=どこにもいないのである。

 

制度設計こそ、「たったひとつの冴えたやりかた

 作中で事態を収拾するための方策として提起されたこと。それは、累がクラウズを全世界の人々に解放し、さらに立川をゲームの舞台として提供して作為的なルールを作ることだった。それによって方向づけられた無数のクラウズが、暴走したクラウズをとっちめることで、どうにか事態は収拾されたのである。

 この解決策は大変示唆的である。善意も悪意も制度設計によって解体し、制度の中でルールを作って方向づける。競争本能という、原始的な感覚を呼び起こすことで、群衆をコントロールすることしか、現代社会においてはできない。そのルールを適切に作成し、運用することこそ、唯一の処方箋。そのように俺は解釈した。

 思えば、『東のエデン』でも、主人公滝沢がTV版最終話で見出した答えは、「うまくつながれていない人間も、適切につないいでやれば、力を発揮する」というものだった。ただ、それを現実に敷衍した形で具体的に示すことはしなかった。

 制度設計に着眼点を置くという部分を受け継ぎながら、その具体的なヴィジョンを示したこと、それこそが『ガッチャマンクラウズ』が超前衛的社会はアニメである所以なのである。

 

 

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*1:宮台真司『まぼろしの郊外』(朝日新聞社 2000)、もう十年以上前の論考だが、未だに妥当性があるのでは

*2:http://www.ntv.co.jp/GATCHAMAN_Crowds/intro/index.html

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