宇宙、日本、練馬

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傑作ロボットアニメの共通点Ⅱ―ラストバトルの想像力

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 先日、『天元突破グレンラガン』と『STAR DRIVER 輝きのタクト』というケッサクロボットアニメを比較の俎上にのせ、ロボットの動力という両者の共通点を指摘した。

傑作ロボットアニメの共通点―『天元突破グレンラガン』と『STAR DRIVER 輝きのタクト』 - 宇宙、日本、練馬

 本日は、その続きとして両者のラストバトルを取り上げ、その共通する構造をみたていきたい。そうすることで、両者の核心部分、そこにある制作者たちの意識の違いが露わになるのではないかと思う。

 絶対的逆境にどう立ち向かうか?

 両者のラストバトルに共通する構図、それは主人公たちが絶対的な逆境に立たされ、それに立ち向かう、というものだ。これだけなら、共通する作品はたくさんあるだろう。しかしグレンとスタドラは、その乗り越え方に、共通するものが見出せる。

 では、その乗り越え方とはどのようなものなのか。それは、仲間の力、絆の力を縁に、主人公が立ちあがる、というものだ。それぞれの作品について確認しよう。

 

天元突破グレンラガン』―大グレン団の底力

 グレンラガンにおいて、最後の敵、アンチスパイラルは比類な強敵として描かれる。幾多の螺旋族を葬ってきたその歴史と銀河的なスケール、地球を絶望的に陥れたその戦略、それらがその圧倒的な強さを視聴者に印象付ける。

 このアンチスパイラルに、シモンたち大グレン団は「気合」を武器に立ち向かうが、アンチスパイラルの罠にはまり、多元宇宙の可能性にはまり込んでしまう。その罠から脱出した方法、それこそが絆の力だ!シモンは、亡きカミナとの邂逅によって再び戦う意思を取り戻し、多元宇宙から脱出する。仲間たちもそれに続いて脱出をはたし、大グレン団の主要メンバーが全天元突破グレンラガンに乗り込み、仲間の力を最大限に結集させて、アンチスパイラルに立ち向かう。

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STAR DRIVER 輝きのタクト』―綺羅星!!

 スタドラでは、最後の敵はキングザメク。こちらも、他のサイバディとは一線を画する最強のサイバディだ。この敵の強大さは、主人公タクトの表情を見れば一目瞭然だ。

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 静止画では若干わかりづらいが、最終話のツナシ・タクトの表情は、焦燥感・絶望感をひしひしと感じさせる。いままでどんな困難にも、不敵な表情で立ち向かってきたタクトがこんな顔を見せることで、なにより効果的にザメクの比類ない強大さを描写している。そして、かつてないほどの絶体絶命の状況に、タクトは追い込まれるのだ。

 さて、この状況をどう打開するか。それは、敵である綺羅星十字団が、物理的にも精神的にもタクトに協力し、奮起させることであった。敵の協力というと、グレンラガンとは全く違うじゃないか、感じる方もおられるだろう。しかしそうではない。綺羅星十字団は、タクトにとって、対立する敵であると同時に、学校での友人でもあるのだ。ここに、スタドラにおける舞台設定、学園青春ロボットアニメの妙が遺憾なく発揮されたといってもいい。綺羅星十字団にとって、タクトは倒すべき敵である。しかしそれは、あくまで「綺羅星十字団」の仮面をかぶっている時だけ。学校の一生徒の立場としては、彼と友人関係にあるのである。その友人関係が取り結ばれる様子を、スタドラは2クールかけて丹念に描いた。

 これで、スタドラも、仲間の力、絆の力でラスボスに立ち向かった、ということがおわかりいただけただろう。しかし、仲間の力を借りた後の両者の展開は、180度異なる。その違いこそ、両者の本質的な違い、作品の核心ともいうべきものが表れている。

 

最強の敵と戦うのは誰か?―戦うことの意味の変容

 両者の違い、それは、誰がラスボスと戦うのか、という一点に集約される。端的に言うと、天元突破グレンラガン』は仲間と共に戦い、『STAR DRIVER 輝きのタクト』は、一人孤独に戦う。以下で、具体的に確認しよう。

 

 グレンラガンでは、先に述べたように、大グレン団全員が天元突破グレンラガンに乗り込む。乗り込むということは、当然、共に戦うことを意味する。グレンラガンはそもそも複座式の機体ではあったが、天元突破グレンラガンにおいてはその特性がさらに強調され、全員の持つ力と技術が、その戦闘方法にも反映され、まさしく総力戦の様相を呈する。

 

 一方、スタドラは、立ちあがった綺羅星十字団は、タクトの窮地を救い、そのままタクトと共闘するのかと思いきや、すぐに全ての機体が戦闘不能に陥る。それでもタクトは、一人で、孤独ともいえる戦いに向かう

 

 この差は、いったいどこから生じたのか。それは脚本である中島・榎戸両氏のカラーの違いであったり、ガイナックスボンズの社風の差であったりと、様々な要因が考えられるし、どれも無視してはならないものだとも思う。つまり一介の素人にはおよびのつかない理由が無数にあるわけだ。「どこから生じたのか」を考えるのは自分の手に余る*1

 「どこから生じたのか」はいったん置いて、その差が何を意味するのかを自分なりに解釈してみよう。グレンラガンが放映されたのは2007年。スタドラが放映開始されたのは2010年。たった三年であるが、この間に、現実社会において、「戦うことの意味」が多少なりとも変容したのではないかな、と自分は考える。グレンラガンの放送された2007年においては、仲間と力を合わせて、強大な敵と戦う、という構図にまだリアリティがあった。しかし、2010年には、それはリアリティを失ってしまった。仲間が倒れても、そして自分が次に倒れる可能性があろうとも、前に進むこと。そんなシビアな方向に、「戦うことの意味」が変わっていったんじゃないかな、と思った。

 

 こんな感じで『天元突破グレンラガン』を見た時のもやもやした思いというか、気持ちを文章にしてみた。見返してみると、やっぱりスタドラの言及した部分のほうが多い。まだまだグレンラガンを理解しきれていないということの証左だろう。これからまた何度も見直して、気が向いたら感想を書きたい。その魅力が、間違いなく『天元突破グレンラガン』にはあった。

 

 

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*1:グレンラガン・スタドラの制作スタッフのインタビューとかから、いずれは考えてみたいとは思っている。