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きっと何者にもなれない人のための「生存戦略」――『輪るピングドラム』感想

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 『輪るピングドラム』を今更見終わった。ただただ圧倒された。「運命」、「呪い」、「家族」、「愛」…取り扱っている主題はとてもたくさんあると思う。見終えたばかりの今は、それらの意味するところをはっきりとはつかめていない気もする。とりあえず今は、見終わったばかりのこの感情を、「何者にもなれない」一人として書き留めておこうと思う。

 「何者にもなれない」という現実

 「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。」

 この一節は、作品を見る前から知っていた。それと「生存戦略」。この2つの印象的なフレーズが、見る前に抱いていた『輪るピングドラム』の印象だ。作品自体もかなり話題になっていたと記憶しているけれども、僕の周りには偶然にも見ていた人がいなかったので、友人と話したりしたこともなかったと思う。

 しかしそれでも、「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。」というフレーズは、僕の頭に残るには十分すぎるほどだった。「何者にもなれないお前たち」の一人は、まさしく自分だと思ったからだ。こんな感想を持ったのは、おそらく僕だけじゃないだろう。典型的なライフコースが崩壊して久しく、まさしく「再帰的近代」的な社会状況*1の中で、何者かになることの困難さは想像を絶する。こんな時代に何者かになれると信じて疑わないものは、徹底した決断主義者かよほど鈍感な人間ぐらいじゃなかろうか。まさしく、「時代の実感」をこれ以上なく鋭く言い当てていると僕は感じる。

 この言葉がなければ、僕は『輪るピングドラム』を見ることはなかっただろう。そして『輪るピングドラム』の物語は、「きっと何者にもなれない」者たちが、如何にして生きることが可能なのか、その一つの方策=「生存戦略」を示していたように、僕には思われる。

救済としての「関係性」

 『輪るピングドラム』は、「何者にもなれない」人たちの物語だと僕は思う。その現代的な状況を最も強く背負っているのは、物語の主役である高倉冠葉、高倉晶馬の二人ではなく、多蕗桂樹、時籠ゆりであろう。以下では多蕗を取り上げそれを説明しよう。

 多蕗はかつて才能によって母親の寵愛を受ける、「選ばれた」こどもだった。しかしより才能ある弟が生まれたことで、母親から見捨てられたと感じ、「選ばれなかった」こどもに身を落とし、生きる意味を喪失した。そこでこどもブロイラーによって「透明」になろうとするが、荻野目桃果によってかけがえのない存在として「選ばれる」ことによって救済をえる。

 この、中盤に明らかになる多蕗の過去は、何を含意しているのか。僕は「何者にもなれない」者たちにとって、可能な「生存戦略」を、もっとも強くあらわしている挿話であるように思える。

 桃果によって「選ばれた」ということの意味は、かつて母親に、才能によって「選ばれた」こととは全く異なる。

 桃果が多蕗を選んだ理由は、作中では明言されていない。というか、おそらく多蕗を選んだ理由などない。ただ多蕗が多蕗であるがゆえに桃果は多蕗をかけがえのない人間であると感じた。これはある意味では足場のない、空虚なことのようにも思われる。母親からの愛は、「才能」という属性によって担保されていた。この意味では或る意味しっかりとした根拠、足場が存在したわけだが、一方でその根拠がなくなれば関係性も崩れることを意味する。一方、桃果が多蕗を選んだ根拠はあいまいで、空虚であるが故に、多少のことで揺らぐこともないのである。

 つまり桃果と多蕗との関係性は、無根拠であるが故に「かけがえのなさ」が際立つ。この「かけがえのない関係性」を得ることこそ、「何者にもなれない」者が、「何者か」になりえる「生存戦略」である。大文字の社会にとっての「何者か」になることは困難だ。それでも特定の誰かにとって替えの利かない「何者か」になることはできる。それが「きっと何者にもなれないお前たち」に対して、『輪るピングドラム』の提示した結論である、と僕は感じた。

 この「生存戦略」はいいことずくめというわけではもちろんない。「かけがえのない関係性」が失われた時に、生きる意味自体をまた喪失してしまう。故に作中で多蕗と同様桃果に「選ばれること」によって救われた時籠ゆりは、生きる意味を取り戻すために、運命の乗り換えによって桃果を再び蘇らせるという「生存戦略」をとることになる。とはいえ、故人を蘇らせるという方策は、現実世界で不可能なのと同様、作中でも失敗する。

 その方向での「生存戦略」の挫折を経て、多蕗とゆりの二人は新たに「かけがえのない関係性」の構築へと向かったことがラストで示唆される。「かけがえのない関係性」自体は唯一無二のものではなく、失ってもまた再構築していくこともまた可能でなのである。そういう意味で、この「生存戦略」は不確かでかすかな光のような、それでもそこにあると信じたい希望のようだと思う。

 「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」というフレーズから、僕が『輪るピングドラム』をみて感じたことを書いてみた。しかしもちろんこれだけでは言い尽くせないものがあるんですよね。高倉兄弟の背負う「呪い」をめぐる問題とか、「運命」とどう向き合うのかとか。また考えがまとまったら書きたいですね。

 

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追記(2021年1月22日)

未だにこの記事にアクセスがわりとたくさんあって驚く。読み返すと稚拙な文章で赤面します。とはいえ、『輪るピングドラム』が2010年代を代表する傑作であるとの思いは強まるばかりです。


 

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*1:なんとなく使っているだけであんま考えてないです、はい