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アニメ『氷菓』が描く、学校という〈場〉――折木奉太郎と福部里志の関係から考える

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 昨日twitterでアニメ版『氷菓』についての語りがとっても盛り上がった。僕はこの『氷菓』がアニメの中で5本の指に入ろうかというレベルで好きなのですが、今まで特に文章は書いたりはしてこなかったんですね。でも書かないと自分にとって大事なことを忘れてしまうそうな気がしたので、この機会に書いておこうと思います。

 僕が『氷菓』に魅力を感じるのは、未だに「学校」的な場・空間に惹かれるのと似ている。『氷菓』はまさに「学校」的な空間の魅力を見事に描写しえている。そんなことを軸に、『氷菓』の魅力を語りたい。

 対照的な二人―折木奉太郎福部里志

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 「学校」という空間について語るために、物語の主要人物である折木奉太郎福部里志、この二人の関係を見ていく。この二人の、のっぴきならない関係こそ、それを十全に伝えるもっともよい例だと感じるからだ。

 アニメ『氷菓』は、この二人がそれぞれ別な意味で変化していく物語である、と僕は思っている。その変化は、成長と言い換えてることもできるかもしれない。「成長」という言い方のほうが、青春もの的な明るさをまとっている気がする。だがしかし、「青春は優しいだけじゃない。痛い、だけでもない。」というちょっと恥ずかしくなるようなキャッチコピーを掲げていることを考えると、僕自身は「成長」ではなく「変化」という言葉こそむしろふさわしいような気がする。「優しい」だけでも「痛い」だけでもない、両者を含意する「変化」。それこそがアニメ版『氷菓』が2クールを通してフィルムに描き切ったものだと思う。

 

「他者」たちの方へ―折木奉太郎の変化

 二人のうちでも特にクローズアップされるのは、もちろん主人公である折木奉太郎のほうだ。全22話の中で、千反田えるをはじめとする古典部員とのかかわり合いやら、日常の謎を追うことを通して、奉太郎は変化を迫られる。どのようなベクトルに変化したのかを一言でいうなら、「他者」たちに一歩踏み出したとでもいうような。

 その変化の大きなきっかけは、やっぱり「愚者のエンドロール」における推理の決定的なミスなんじゃなかろうか。このお話の中で、奉太郎は架空の事件に対して見事に筋道をつけ解決したと思いこむが、実はそれは誤りを含んでいた。それを古典部員の3人、伊原摩耶花福部里志千反田えるに順々に指摘されるわけだ。無敵のホームズ役かと思われた奉太郎がある意味敗北するのが、この「愚者のエンドロール」の魅力だろう。

 それはひとまずおいて、3人の指摘の中で特に奉太郎に大きな意味をもつのは、えるの指摘だろうと思う。小説でもアニメでもこのえるの指摘する場面が最後に位置すること、ほかの二人の場合と違い、奉太郎が反論しようとしないことなどがそう考える理由だ。加えて決定的なのは、千反田の指摘を受けてはじめて奉太郎が自己批判をはじめることだ。えるとの会話を経て、「あの脚本をただの文章問題とみていたんじゃないか?」「俺は脚本の本郷という人間の気持ちが込められているなんて考えもしなかった」という自身の決定的ミスを認める。

 

 

 このミスこそ、次回の「クドリャフカの順番」で奉太郎が見事に推理を遂げるための伏線となるわけだ。つまりえるの指摘が、奉太郎にとっての大きなターニングポイントとなったのである。「他者」の心情まで斟酌して物事をとらえるようになったことこそ、その後の奉太郎の変化を準備したといっても言い過ぎではないだろう。そうして、奉太郎は「他者」のほうへと足を踏み出した。

 それを別の側面からみてみれば、省エネ主義だった奉太郎が、自分の能力を惜しみなく使うようになるということでもある。物語が始まった時点で、奉太郎は自分の能力を生かす場に上がろうともしないような人間だった。それを「省エネ主義」という言葉で言いつくろっていたともいえる。しかし最終的には、そうした場=舞台に上がることを、奉太郎は躊躇しなくなった。この「舞台に上がる/降りる」という点において、まさしく折木奉太郎福部里志は対照をなしているといえるのだ。

 

「ゲーム」から降りること―福部里志の変化

 福部里志は、本人の言葉を借りれば「こだわらないことにこだわって」いる人間だと自己認識している。これを先ほどの言葉で言い換えれば、「舞台から降りている」人間だということになる。しかし里志は本当に舞台から降りているだろうか?そうではないことは、「クドリャフカの順番」でみせる犯人探しへの情熱から明らかだ。

 舞台で活躍なんてできないことは、なんとなくわかっている。だからこそ舞台から降りたような態度をとってはいるものの、舞台の上で輝きたいという欲望を抑えることができない。その発露が、まさしく「クドリャフカの順番」でみせたような情熱に他ならない。

amberfeb.hatenablog.com

 

 ここで、同じく犯人探しやら料理大会やらに熱をあげる谷惟之に対する里志の目線は注目すべきものがある。やたら里志と張り合おうとする谷くんに対する里志の目線は、驚くほど冷たい。見下しているといってもいい。原作のモノローグの冷たさはぞっとするものがあるレベル。ここに里志の屈折がある。自分なら舞台で活躍できると信じて疑わない無邪気さが、里志には心底気に入らない。とはいえ里志もまた、舞台に上がりたいと、そこで輝きたいと切望する人間の一人なのだ。このねじれた感情こそ、福部里志というキャラクターをこの上なく魅力的にしている。

 とはいえ、舞台で輝きたいという里志の欲望は、究極的には成就することはない。奉太郎のある種の才能を前にして、里志の挫折は一層深まる。それでこそ、21話における心情の吐露、「情けないこだわり派」に戻りたくない、「こだわらないことにこだわ」るという姿勢が胸を打つことになるのだ。

 だがそれでも、21話のラストで里志は、「こだわる」ことに足を踏み出したんじゃないだろうか。「他者」との関係にこだわることに、ようやく一歩踏み出した。この「他者」への一歩は、確かに奉太郎と同様のベクトルの変化である。しかしそれは、奉太郎とは全く異なる方法でなされた。舞台に上がることをついに断念すること。そうすることで、やっと里志は「他者」と向き合う準備ができた。そう僕は考えている。

 

学校の魅力ー決して交わることのないものが交わる場

 このふたりの関係が、見事に対照をなしていることを今までみてきた。この二人は、中学からの縁で高校でも奇しくも同じ部活に入り、同じ時間を共有することになった。はたして学校という場がなければ、この対照をなす二人の人生が、こうまで奇妙に交わり合うことはあっただろうか。

 この二人の交感にこそ、学校という場の魅力が凝縮されている。ほかの場では決して交わらないであろう二人の人生がなぜだか交錯し、絡み合う。それに途方もないロマンを感じるんですよ。だから僕は学校を舞台にしたドラマが好きです。スタドラとかね。

『STAR DRIVER 輝きのタクト』 未来への信頼 - 宇宙、日本、練馬

『スタードライバー THE MOVIE』 まだ見ぬ空のその先へ - 宇宙、日本、練馬

 はい、尻切れとんぼな感じですけどとりあえずこんな感じで。『氷菓』についてはまた書きたい。

追記(2015/01)

また学校に関して書いたりしました。

学校と不可知の他者―『ブギーポップは笑わない』と『STAR DRIVER 輝きのタクト』における学校 - 宇宙、日本、練馬

密室から脱け出す夢をみる―『アルモニ』の学校空間 - 宇宙、日本、練馬

 

 

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