『ザ・マスター』をはじめて見てから、もう一年が経とうとしている。初見ではとにかく俳優の演技と美しいカットにばっかり目が行ってしまって、この映画の言わんとするところ、物語自体の枠組みについては正直よく理解できていなかった。そのあとBlu-rayで幾度か見て思いを巡らしていたりして、ようやく物語の全体の枠組みをつかめたような気がするので、それを書いておこうと思う。
「マスター」とはなにか?
『ザ・マスター』を理解する上でキーとなるのは「マスター」という言葉であることは間違いない。タイトルにもあるしね。「マスター」=新興宗教の教祖ととらえることもできるし、それを含意した言葉選びでもあるんだろう。宗教の導師としての「マスター」。フィリップ・シーモア・ホフマン演じる教祖、ランカスター・トッド=マスター、と素直に読み取ることができる。しかしこの意味するところはそれだけだろうか。
理解の助けになるかはどうかは別として、ポール・トーマス・アンダーソン監督はこう述べる。
人は何かマスターという存在なしに生きられるか?もしその方法があるなら教えて欲しい。我々誰もがこの世をマスター無しで彷徨えるとは思えないから*1
うーん、あまり助けにはならない気もする。とはいえ、「マスター」を単に宗教の指導者と読むことがいかに安直な読解かを示すことには十分な言葉でもあるように思う。監督は、何度も何度も作中でも意味ありげに「マスター」について登場人物たちに言及させる。ひとは「マスター」なしに生きることはできない、お前がそうなるなら史上初めて「マスター」無しに生きる人間になる...などなど。そんな台詞の端々やマスターの輪郭は作品のなかでぼんやりながらも浮かび上がってくる気がする。
僕はさしあたって、「マスター」とは人間を支配しコントロールする技術を持った人間のことである、という風に定義し、『ザ・マスター』の物語の大枠を読み解いていきたい。その定義に照らし合わせると、作中で明確に「マスター」として立ち現われてくる人物は3人存在する。新興宗教の教祖、ランカスター・トッド。そしてその妻である、エイミー・アダムズ演じるペギー。そして主人公であるホアキン・フェニックス演じるフレディ。奇しくもメインヴィジュアルで全面に出ているこの3人こそ、まさしく「マスター」といえる人間であるといえる。
この観点から作品を眺めるならば、『ザ・マスター』は主人公であるフレディが、「マスター」としての己をはっきりと制御できるようになるお話、すなわち成長譚として読み解くことが可能になってくる。あるいは「異なる支配の技法同士の闘争」。以下でそれを詳しく論じたい。
3人の「マスター」
トッド=「マスター」ー支配の技法としての宗教
新興宗教の教祖であるトッドが「マスター」であることに、異論をさしはさむ余地はないだろう。トッドは宗教という道具を使って、人をコントロールする。その意味で、僕の定義した意味での「マスター」にもはっきりと当てはまる。
とはいえ、そのトッドも単に「マスター」として人間を支配し、コントロールするだけの人間ではない。トッドは終盤でフレディにこう語りかける。「マスターなしに生きられる人間はいない」と。「マスター」である彼がなぜこんなことを告白するのか。それは彼もまたほかの「マスター」に支配される人間であるからに他ならない。
ペギー=「マスター」―支配の暗喩としてのセクシャル描写
そのトッドを支配しコントロールする人物こそ、その妻であるペギーに他ならない。そうはいっても、ペギーが表立ってトッドを支配しているようには見えない。しかしながら、そう感じさせる強烈な描写が存在することもまた事実だ。それこそ、ペギーがトッドに対して行う性行為だ。この性行為で、年長者であるトッドは完全にペギーに対して従属的な態度をみせる。このことが、両者の支配・被支配の関係を見事に写し取ったものであるように思われる。
こうした支配関係を脅かすものとして、教団の外部から突如現れるのがフレディというわけだ。
フレディ=「マスター」ーアルコールの抗い難い魅力
トッドの支配の技法は宗教であり、ペギーのそれは性的なものに象徴されていた。それではフレディの支配の技法とはなにか。それこそが、作中で何度も何度も繰り返し製造する、巨大な魅力をもつ酒である。この酒こそ、フレディが人々を魅惑する、その能力の源泉なのだ。このアルコールの抗いがたい魅力こそ、トッドがフレディに興味を持つきっかけになったことは示唆的だ。このアルコールの魅力によって、トッドーペギー間の支配関係が崩れる危険性を敏感に感じ取ったからこそ、ペギーはフレディをトッドから遠ざけようとし、酒をやめさせようと強烈に働きかけるのである。
しかし物語の序盤でフレディは、このアルコールの魅力を十全に活かせているとは言い難い。アルコールで人を引き付けはするものの、それと同時にアルコールによって騒ぎを起こし、次々と居場所をなくして別の場所に向かわざるを得なくなる。
そうしてトッドと出会い、アルコールの魅力で彼を引き付けると同時に、彼の支配の技法である宗教にも強烈に引き寄せられていく。ここでフレディははじめて「マスター」を得たと言い換えてもいい。それは同時にフレディが「マスター」となることでもあったわけだ。この二人の奇妙な関係。そのなかでフレディは己の支配の技法を確かなものにしていき、やがてはトッドと決別するに至るのだ。
この決別は、フレディとトッド、それぞれ異なったベクトルのの支配の技法が限界点まで高まった結果とみることができるんじゃないかと思う。人々の理性に働きかけて支配する「マスター」であるトッドに対して、より本能的というか身体性に働きかける「マスター」であるフレディ。両極端だからこそ足りないものを補い合う形で惹かれあった両者が、ついにはそれによって決別する。
この対立軸は、ポール・トーマス・アンダーソン監督の前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』でもみられた秩序と欲望、理性と本能の対立とオーバーラップすると言ったら言い過ぎだろうか。『ザ・マスター』はさしずめ『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の前史とでも言えようか。対立する両者のつかの間の邂逅。
とりあえずこんなことを考えました。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』についても何れ文章を書きたいなーと思っています。
以前書いた『ザ・マスター』の感想。
『ザ・マスター』 小山力也の吹替えが壮絶 - 宇宙、日本、練馬
【作品情報】
‣2012年/アメリカ
‣監督:ポール・トーマス・アンダーソン
‣脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
‣出演(日本語吹き替え)
- フレディ・クエル :ホアキン・フェニックス (小山力也)
- ランカスター・ドッド: フィリップ・シーモア・ホフマン (後藤哲夫)
- ペギー・ドッド :エイミー・アダムス (落合るみ)
- ヘレン・サリヴァン :ローラ・ダーン (入江純)
- エリザベス・ドッド: アンビル・チルダーズ (下山田綾華)
- ヴァル・ドッド: ジェシー・プレモンス
- クラーク: ラミ・マレック(中村和正)
- ジョン・モア: クリストファー・エヴァン・ウェルチ (魚建)
- ビル・ウィリアム: ケヴィン・J・オコナー
- ドリス・ソルスタッド: マディセン・ベイティ (佐藤美由希)
- ソルスタッド夫人: レナ・エンドレ
*1:映画「ザ・マスター」公式サイトより引用。