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宇宙、日本、練馬

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ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰』を読む 前編

読書

 

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

 

 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』を2年ぶりに通読した。2年前に読んだ時よりはるかに「わかる」感触があり、なんとなく頭にすっと入ってきているような気がした。2年前は頭をひねりながら読み進めて、たまーに「フーコーさんすげえこと言ってる!!」となる、みたいな感じだったんですが、今回は「あーフーコーさんの言ってることわかるわーマジわかるわー」という感じだった。「わかるわー」と読み進めていてもやっぱりちんぷんかんぷんなところも少なくないんですが、やっぱり『監獄の誕生』はとんでもなくすげえ本だとの確信を深めましたね。

 読んで読みっぱなしというのも 勿体ない話なので、その感覚が確かなうちに、今の自分には『監獄の誕生』がどう読めたのか、ということを書き留めておこうと思う。

 『監獄の誕生』を読む前提として

『監獄の誕生』が明らかにするもの

  この『監獄の誕生』、『監獄の誕生』というタイトル*1を冠してはいるものの、監獄が発明されたことを跡付けてはいおしまい、という本ではもちろんないわけです。

 それでは何を明らかにしたのか。それを僕なりの言葉で表現するなら、監獄という装置の発明によって、「監視と処罰」の体系が社会を覆うさま、つまり社会全体のパラダイムシフトを監獄という制度に見たわけです。本文から引用するならば、

近代精神と裁判制度の相関的な歴史。処罰権がその根拠を入手し、その正当性と諸規則を受け取り、その影響を及ぼし、その途方もない奇怪さに仮面をかぶせている、こうした現今的の科学的で司法的な複合体の系譜調べ。

ミシェル・フーコー『監獄の誕生』p27より引用

これこそが、本書の目標であると。「科学的で司法的な複合体」の形成される過程をとらえ、それが全社会的に広まる様子こそ、『監獄の誕生』が提示しているのだと言えると思います。

 

3つの水準

 そうした刑罰制度を見ていくにあたって、フーコーは3つの水準に刑罰制度にかかわる考え方の変化を区分している。『監獄の誕生』を読むにあたってなにより肝要なのが、示される歴史的事実及び言説が、この3つの水準のうちのどれと対応しているものとして考えられているのか、ということが、多分大事なんじゃないか。その3つの水準、方法は

  1. 身体刑
  2. 処罰の都市
  3. 監獄

 となる。①の身体刑は君主の権力を象徴するもので、八つ裂きとか火あぶりなど。民衆の前で、罪人が強烈な刑罰を受ける。この制度では罪人は「打ち負かされた敵」として扱われる。

 ②の処罰の都市は、もっと適切な言葉があるかもしれないのですが、なんとなく響きがいいので本文から引用してます。「処罰の都市」といってもなんのことか全くイメージがつかめないと思いますが、具体的には、街中での徒刑。民衆が刑に服する罪人をみる・罪人が民衆に見られることによって、法主体としての個人が再規定される、そうした刑罰制度のことを指します。これは「改革者たち」(ベッカリーアなど)によって考案されたもの。

 ③の監獄は、罪人をある種の見せしめとする上2つとは異なり、罪人を閉じ込めみえなくする。

 それぞれが全く別の権力技術を示しており、この3つの系列が『監獄の誕生』が対照とする18世紀後半において「対決」した、とフーコーさんは考えている。その結果は言うまでもないですね。以下で本文の内容を確認しようと思います。

 

第1部 身体刑

 『監獄の誕生』本文を読み始めた我々が出会うのは、国王殺害を試みた男、ダミヤンがむごたらしく処刑される様子である。1757年に行われたこれは、①身体刑の具体的で鮮烈な事例として紹介されているわけです。

 そのすぐ後に、1838年ごろに書かれた「パリ少年感化院のための規則」が引用される。この感化院の規則は、ダミヤンのむごたらしい処刑とは打って変わっておだやかなもの。入院者の生活を事細かに規定するものです。これは③を想起させる。

 この2者の比較から、処罰は見世物でなくなり、また身体が単に罰の対象でなく、精神に働きかけるための媒介の地位におかれるようになったことが見て取れる。100年もしない間に、全く犯した罪の性質が異なるとはいえ、ここまで極端な変化が生じたのはなぜか?

  その問いに答えるのが、この第1部と、続く第2部ということになるでしょうか。この第1部では、①身体刑が主に分析されることになります。

 

 身体刑はむごたらしく、現代の我々からは奇妙に映るかもしれないが、しかしその当時はある意味「理にかなった」ものだった。身体刑はまったくのでたらめに罪人の身体を攻撃したのではなく、一定の規則に則って罪人の身体に働きかけた。審問、拷問から、処刑のその瞬間までを、フーコーはそうした過程として提示している。

 とはいえ、身体刑という制度は様々な限界も生じ始める。民衆の面前で行われる処刑は、君主の権力と罪人の対決の場であり、それはすなわち君主の権力が罪人の身体に屈服する可能性を内在させていることを意味する。罪人が民衆によって英雄視され、処刑場では反乱めいたものが生じる危険すらあった。そうしたなかで、改革者たちの制度が登場することになるのである。

 

第2部 処罰

 改革者たちは、身体刑なき処罰の必要性を説く。どんなに凶悪な犯罪者であっても、「人間性」は尊重しなければならない。そうした観点から考案されるのが、②処罰の都市というわけである。

 「人間性」という錦の御旗を掲げて提案された改革が、しかし単純に新しい感受性によってなされたわけではもちろんない。違法行為の性質が、18世紀後半には変化していることをフーコーは指摘し、それに対応する形で改革者の案も提出されたのだと主張する。単に「人間性」の発展の結果、身体刑は批判され、廃止されたのだという見方を徹底的に拒否する目線がそこにはある。

 

 とはいえ②処罰の都市はあっという間に③監獄にとって代わられる。監獄は改革者によって批判されたが、それでも急速に広まっていく。

処罰中心の舞台にとってかわって現れたのが、監獄という大いなる画一的な装置であり、その巨大な機構の網の目がフランス全土とヨーロッパにひろがろうとしているわけである。だがこの奇術のようなこの作業に二十年もの時間経過を推定するのは、あまりに多すぎるにちがいない。その奇術はほとんど一瞬のうちに行われたといいうるのである。

『監獄の誕生』p120より引用。強調は引用者による。

 こうして、監獄は誕生した。第2部でも②処罰の都市的な刑罰制度と対比する形で、監獄の特徴は記述されているものの、第3部以下でまとめたほうがわかりやすい気がするのでまた今度。第3部、第4部についてはまた近いうちに。

 

 追記

後半部分について書きました。

amberfeb.hatenablog.com

 

 

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*1:『監獄の誕生』は訳者が原著の副題からとったものなので、タイトルというのは不適切かもしれないが...

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