宇宙、日本、練馬

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ミシェル・フーコー『監獄の誕生』を読む 後編

 

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

 

 

ミシェル・フーコー『監獄の誕生』を読む 前編 - 宇宙、日本、練馬

 前回あげた記事で、『監獄の誕生』の前半部分を自分なりにまとめたわけですが、今回は後半部分を。フーコーの規律=訓練ワールドが展開される「第3部 規律・訓練」と「監禁的なるもの」が社会を覆い尽くすに至る過程を分析する「第4部 監獄」について、要約めいたものを書き留めておこうと思います。

 第3部 規律・訓練

 「第3部 規律・訓練」で議論されるのは、第2部でみた監獄の内部で働く権力の力学、つまり規律・訓練的な権力の在り方です。権力といっても、君主や政府の権力のような、「上から押さえつける」ような力として働くものだと考えると、ここで議論される権力の在り方を誤解しかねない。ではここでいう権力とはどんなものなのか。第1部第1章から引用すると、

その権力のうちにわれわれは、所有しうるかもしれぬひとつの特権を読み取るよりむしろ、つねに緊迫しつねに活動中の諸関連がつくる網目を読み取るべきであり、その権力のモデルとしてわれわれは、ある譲渡取引を行う契約とか、ある領土を占有する征服を考えるよりむしろ、永久に果てない合戦を考えるべきであること。要するに次の点を承認しなければならない。その権力は所有されるよりむしろ行使されるのであり、支配階級が獲得もしくは保持する≪特権≫ではなく支配階級が占める戦略的立場の総体的な効果である―被支配者の立場が表明し、時には送り返しもする効果であることを。

『監獄の誕生』p31より引用。強調は引用者による。

 この権力の説明は、規律・訓練的な権力の一面を的確に表しているのではないかと思います。この規律・訓練的な権力について、第3部第1章で詳細に分析がなされるわけです。

 この規律・訓練的な権力は、なによりもまず身体に働きかけるものである。とはいってもその働きかけは、かつての身体刑のそれとはまったく異なる。細部にわたって身体に働きかけ、動作や姿勢を細かく規定する。働きかけを絶え間なく続けていくことによって、人間を服従=主体化していく。このような「身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが≪規律・訓練≫と名付けうるもの*1」だとフーコーは指摘する。

 とはいえこの規律・訓練的な権力は単に人々を制御し管理し抑圧するものではない。規律・訓練的な権力によって作り出された個人は、「役立つ個人*2なのである。規律・訓練的な権力は、単に抑圧するもではなく、個人の身体から「有用性」を引き出す側面もある、ということが、第3部ではしきりに記述される。

 とはいえ、それがだれにとっての「有用性」かというと、規律・訓練を課される個人にとっての「有用性」とは言い難い。規律・訓練を課される個人は、その個人がそれにとってふさわしくないほど、より「目立つ」ようになる。たとえば試験をパスできない人間こそが、規律・訓練的な権力の働く場では一層際立つことになる。これをフーコーは、≪下降方向≫の個人化と呼んでいる*3。規律・訓練的な権力によって、「だめなやつほど目立つ」ような状況が発生する。そして「だめなやつ」に関する情報、心理学など学問的な角度からより一層蓄積されていき、一層「目立つ」ことになる。

 こうした規律・訓練が、監獄にとどまらず、社会全体に拡張していっていることをフーコーは指摘する。17世紀から18世紀にかけて、規律・訓練的な社会が形成されたことが、第3部全体を通して描きだされたのではないだろうかと思う。

 

第4部 監獄

 そうして社会全体に議論が拡大したところで、また監獄に議論の対象が移ることになる。第4部第1章で描かれるのは監獄の様相ではあるが、それから次第に社会の分析へと範囲を広げ、「監禁的なる」社会の誕生を跡付けるのが、『監獄の誕生』のクライマックスである。

 監獄は、それが登場した当初から批判にさらされていた。その批判は、19世紀初頭から現在に至るまで繰り返し繰り返し、同じ形式でなされているとフーコーは述べる。拘禁が再犯を誘発している、収監者同士の共謀関係が助長される、収監者の家族を貧困状態にし、非行に走らせる...。そのような批判にも関わらず、監獄は今日にいたるまで処罰の一般的形式として存続している。

 それは監獄そのものに、そのような「失敗」が内在しているから、つまり監獄の目的は「犯罪の抑制」にはないからだ、というのがフーコーの答えではないかと思う。

監獄は、しかも一般的には多分、懲罰というものは法律違反を除去する役目ではなく、むしろそれらを区分し配分し活用する役目を与えられていると。しかも法律に違反するおそれのある者を従順にすることをそれほど目標にするわけではなく、服従強制の一般的な戦術のなかに法律への違反を計画的に配置しようと企てているのだと。だとすれば刑罰制度とは、違法行為を管理し、不法行為の黙許の限界を示し、ある者には自由な行動の余地を与え、他の者には圧力をかけ、一部の人間を排除し、他の人間を役立たせ、ある人々を無力にし、別の人々から利益を引き出す、そうした方法だといえるだろう。要約すれば刑罰制度はただ単純に違法行為を≪抑制する≫わけではなく、それらを≪差異化し≫、それでもって一般的な≪経済策≫を確保しようとするといえるだろう。

『監獄の誕生』pp270-271より引用。強調は引用者による。

 違法行為の抑制でなく、むしろそれらの管理・活用。その際に創出されたのが、「非行性」という概念である。違法行為の中でのある一定の形式を、この概念によって補足し、ひとつの特権的な地位を与えること。そのある種の抽象的なフィクションによって、他の違法行為を意味付けし、犯罪者を「非行者」として意味づけていく。一種の「通貨」として「非行性」は機能する。この「非行性」の創出がまさに、司法制度を監獄に従属させる契機となる。監獄は司法の下にあるのではなく、むしろ司法こそが監獄に従属している。監獄はまさに≪反=法律≫的な存在なのである。

 こうした「監禁的なるもの」は、監獄の外部にまで浸透し、監獄のごとき監視と処罰の在り方によって社会はおおわれることになる。

閉じ込め、司法上の懲罰、規律・訓練の制度、それらのあいだの境界はすでに古典主義時代には明確でなくなっていたが、今やその境界は消えさって行刑技術を規律・訓練の施設のなかでも最も悪意のない施設にまで普及させる大いなる監禁連続体が組み立てられようとし、規律・訓練面の諸規格は刑罰制度の核心に伝えられ、どんな些細な違法行為でも、どんなに僅かな不正でも、逸脱や異常もが非行性ではないかと恐れられる。

『監獄の誕生』pp297-298より引用。強調は引用者による。

 「監禁群島」、「監禁都市」とフーコーが呼ぶような、「監禁的なる」社会の誕生がここに明らかにされたわけである。

 

 以上、フーコーの議論を自分なりに辿りなおしてみたつもりだが、やはり「十分理解できていない/言いきれていない感覚」があって、それを感じることができたのが、要約してみた一番の成果かなという気がする。またちょくちょく追記修正したいです。

 

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*1:『監獄の誕生』p143より

*2:『監獄の誕生』p212より

*3:『監獄の誕生』p195より