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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

『もののけ姫』と日本の近代―エボシとジコ坊から考える

映画 アニメ ジブリ

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 今日、金曜ロードショーで『もののけ姫』を観ました。『もののけ姫』はもちろん、中世日本を舞台にした時代劇なわけなんですが、それが描くもの、提示しているものは極めて現代的なのではないか。端的にいえば、日本にとっての近代化とはなんだったのか、それを描く寓話のように読むことができるのではないか。そこらへんのことをちょっとメモ的に書いとこうと思います。

 エボシ―「合理的な」近代人

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 『もののけ姫』の舞台は中世日本であるにも関わらず、「近代人」的な思考をもつ人物がただ一人登場する。それはタタラ場を率いるエボシ。自然を切り開いて製鉄を行う彼女は、比喩ではなく神をも恐れぬ人間である。この神をも恐れぬ姿勢、「脱魔術化」されたメンタルを持つ彼女は、まさしく「近代人」としての役割を物語上で背負っているといえる。

 そうした「近代人」が、女性という、前近代社会における社会的弱者であること、女性を男性以上に重く用いていること、また女性以上に社会の周縁に追いやられていたであろうハンセン病患者をも自らの陣営に組み入れていること。そうした、彼女とその仲間が帯びるある種特異な属性は、網野善彦の描いた中世の姿を下敷きにして想像の翼を羽ばたかせたものでもあり、さらに多くのことを含意するものでもあるんじゃないかと思う。

 

amberfeb.hatenablog.com

 

 たとえば、社会的な弱者、社会の周縁におかれた人間たちこそが、近代的合理性の担い手になる、という像から、マックス・ヴェーバーの『古代ユダヤ教』を想起したりもする。パーリア民族としてのユダヤ人とタタラ場の人間たちとのアナロジー。さすがに突飛すぎますね。

 

ジコ坊―近代人にはなりきれない日本人

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 そうした近代人エボシ以外にも、シシ神殺しをもくろむ者たちもいる。その中でも特徴的な人物はジコ坊だろう。彼も目的のためには手段を選ばない、ある意味合理的な人物であるといえるかもしれない。シシ神を「目がつぶれる」と見ようとしなかったジバシリに対して、ジコ坊はなんのためらいもなくシシ神を偵察し、その居場所を突き止める。こうしたふるまいからは、彼も脱魔術化した近代人であるようにも思える。一面では、彼も近代人としての側面を持っていることは否定できないだろう。

 とはいえ、ジコ坊の合理性はエボシほど徹底してはいないように思える。その証左として、あくまで彼はシシ神殺害をエボシにやらせようとする。自分があくまで下手人となることを避けようとするように。

 この機制を理解するために、宮崎駿監督自身が、アメリカで受けたインタビューが大きな助けになる*1。そのインタビューの中でジコ坊について尋ねられた監督は、「彼は日本人の典型」であると発言する。このことは、彼の劇中における特異な立ち位置から宮崎駿にとっての日本人というものを解釈する材料になるだろうし、それから日本人論を語るだしにもなるだろう。それもまたどこかで書きたいけれども、ここでは「シシ神殺しの下手人」になりたくない彼の心性を説明するための縁として、「ジコ坊=日本人」というイメージを使おうと思う。

 

 では、そうした日本人の心性とはいかなるものなのか。それを示す面白い事例が、以下で引用する記事の中にある。

 西洋は「信じる宗教」、日本は「感じる宗教」 | 日本人としての教養 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

 昨年の11月に話題になった上の記事の中に、お守りをめぐる教授と学生とのやりとりがひかれている。それを引用しよう。

この中で宗教を信じている人、手を挙げてください」と言うと、200人の教室で2、3人の手が挙がる。(中略)

「じゃあ、何も信じてない人、手を挙げてください」と言うと、みんなバーッと挙げるんですよ。「その中で初詣に行ったことのある人」と言うと、手を挙げる。「その中でお守りを持っている人、持ったことのある人」と言うと、手が挙がって、カバンの中に持っている子がいるんです。「じゃあ、あなたたち、宗教を信じていないのなら、ここにハサミがあったとしたら、そのお守りをズタズタに切れる?」と言うのです(笑)。

「宗教なんか信じてなくて、神様も信じてないなら切れるだろう?」と言うと、「ダメです。そんなことできるわけないじゃないですか」とうろたえる。「何でできないんだ?」と聞くと、「バチが当たる」と。「誰がバチを当てるんだ?」「神様のバチが当たる」って。「おまえ、神様を信じてるのか?」「いや、神様なんて信じてません」と。「じゃあ、切れるんじゃない?」って、そこで押し問答になるわけです(笑)。

  ここに、日本人的な機制がダイレクトに表れている。神様なんか信じちゃいないのに、お守りを切れと言われたらなんとなくためらってしまう。この感覚は、まさしく「シシ神殺しの下手人」になりたくないジコ坊のそれと大きく重なるのではないだろうか。彼もまた、神なぞ信じてはいないのに、それに対する恐れから完全には自由になりきらない。魔術の残り香に縛られる人間としての日本人という像が、ここから浮かび上がってくるのではなかろうか。

 

近代人のイデアと日本人のあいだ

 『もののけ姫』は、透徹した近代人であるエボシは、究極の破滅への対応というクライマックスの活劇から姿を消し、近代人エボシを利用して神の首を得たジコ坊と、ジコ坊から首を取り戻してなんとか破滅を阻止しようとするアシカタとサンとの対立へと物語は収斂する。このことは、はたして何を意味しているのか。

 なんとか首を神に返したアシタカとサン、「馬鹿には勝てん」というジコ坊の言葉、よみがえったかに見えるがしかしシシ神の去った森...。それがどんな像を結ぶのかはまだあいまいなので、また機会を作って見直して加筆しようと思います。はい。

 

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もののけ姫

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【作品情報】

‣1997年/日本

‣監督:宮崎駿

‣脚本:宮崎駿

‣美術:山本二三、田中直哉、武重洋二、黒田聡、男鹿和雄

作画監督:安藤雅司、高坂希太郎近藤喜文

‣出演

 

 

 

*1:もののけ姫 in USA』より。Blu-ray版に映像特典として収録

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