宇宙、日本、練馬

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アニメ『ピンポン』感想 相棒がいなけりゃ卓球はできない

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 アニメ『ピンポン』の最終話を遅ればせながら観ました。良すぎた。どんなに言葉をつくしても足りないくらい良すぎた。とはいえ「良すぎた」という感想だけを残しておくのもあれだと思うので、感想を書いとこうと思います。

 「行くぜ、相棒。」

 「行くぜ、相棒」。最終話のアバンのラスト、オープニングに入る直前にペコが口にするこの台詞に、僕にとっての『ピンポン』の魅力は集約されている。

 アニメ化に際して湯浅監督は本筋を変えずに、大胆に物語を組み換えて登場人物に肉付けをすることで、傑作だった漫画版、実写映画版との差異化をはかった。以前記事に書いたアクマをはじめ、チャイナ、ドラゴンもドラマによってより人間としての奥行きが増した。

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 主人公である星野裕=ペコよりもむしろ、脇を固める人間たちのドラマを描くことで、アニメ版『ピンポン』はかなり群像劇チックな色が強くなった気がする。物語の折り返し地点まで、ペコに大きくスポットライトが当たることはなかった。一話のタイトル「風の音がジャマをしている」が孔文革=チャイナの台詞から取られていることは象徴的だ。

 しかし、群像劇チックになったからといって、主人公ペコの魅力、その輝きが弱くなったかというと、決してそうではない。様々な卓球に懸ける男たちのドラマを通して、ペコという究極の高みに向かおうとする一個の天才が逆照射され、むしろその孤高の才能が一層光り輝くことになった。アクマ、チャイナ、ドラゴン、そしてなんといってもスマイル...。そうした「相棒」たちとの抜き差しならぬ勝負=ドラマを抜きにして、ペコという天才のすさまじい天才性を魅力的に描くことはできなかった。その意味で「行くぜ、相棒」はアニメ版『ピンポン』をまさしく象徴する台詞だと僕は考えるのである。

 

「相棒」たちと卓球

 「相棒」たちの人間を掘り下げることは、ペコの魅力が増すにとどまらず、「相棒」たち自身の、卓球という競技をはるかに飛び越してその人生までをもその射程におさめたドラマを描きだすことになった。これも、アニメ版『ピンポン』の魅力に違いない。それは原作でもちらりと顔を出しているものでもある。以下で引用する、チャイナとコーチのやりとりは漫画版から。

「恐ろしく惨めな孤独が俺を包んでいるよ、コーチ」

「はは・・・。お前の人生は今始まったばかりだよ、文革。今やっと、スタートラインに着いた所だ。」

「俺はもう・・・。卓球はもう・・・。」

「卓球じゃないよ。人生の話をしている。そして、これはコーチとして君に伝えるアドバイスではないよ。君を良く知る友人としての意見さ、文革。」

「ははっ・・・。救われるよ。」

 

 アニメ版でも印象的だったこのシーンの情感。この情感をより深く、他の人物たちにも与えたのが、アニメ版の魅力じゃなかろうか。そのために、ドラゴンはその親族や彼女という人間関係が付与され、チャイナもまた、故郷の母、そして高校の友人たちとの交感が描かれた。

 卓球で上を目指し続けるという果てのないゲームをやめても、人生というドラマは終わらない。卓球をやめても、人生は続く。最終話、5年後のドラゴン=風間竜一とスマイル=月本誠のやりとりに、このメッセージは端的に表現される。あのストイックさの権化であったドラゴンですら、卓球に懸ける人生は「いやだよ、そんなの」とまで言わせたのは、アニメ版で付け加えられた台詞だ。卓球というゲームの敗者に対する、温かいまなざし。

 しかしそれと同時に、卓球選手をやめたであろうスマイルに、「卓球に人生を懸ける人生も悪くないと思います」とも言わせる。卓球というゲームの底知れぬ魅力。人を引き付けてやまない魔力。それもまた示される。「俺はもう・・・。卓球はもう・・・。」なんて言葉を吐露したチャイナも、アニメ版では卓球を続けていることが明示された。

 この得も言われぬ卓球の魔力と、しかしそれをやめても生きていく人間。それになにより心を撃たれたのでした。

 

 

 

 

ピンポン (1) (Big spirits comics special)

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