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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

〈虚構の都市〉を生きるというリアル――『機動警察パトレイバー2 the Movie』感想

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『機動警察パトレイバー the Movie』と「東京」の創造と破壊―ロマンチストとしての帆場暎一 - 宇宙、日本、練馬

 先日この記事を書いてから、その続編たる『機動警察パトレイバー2 the Movie』についてぼんやりと考えを巡らせていまして。そこで描かれる東京とはなにか、そしてその東京を、柘植行人という男はどう見ていたのか、そしてその東京を、どう変えようとしたのか。そんなことについて、僕の思うところを書き留めておこうと思います。

 〈虚構〉の都市、東京

 本作、『機動警察パトレイバー2 the Movie』が舞台とするのは、2002年の冬の東京。公開されたのは1993年だから、ほんの少し先の未来、近未来ということになる。しかし、そこで描かれる東京の姿は、近未来の東京の姿であろうか。僕はそうは思われない。つまるところ、本作の舞台は「近未来」としての2002年というよりは、公開された当時、「1993年のリアリティの反映」としての2002年、と見る方が妥当ではないだろうか。1990年代前半、東京は、いかなる都市として人々に認識されていたのか。それを跡付けるために、映画から少し離れて寄り道をしてみる必要がある。

 1990年代という時代を位置づけるためには、その歴史的な位相を確認することが有意義だろう。そのために、社会学者である見田宗介の知見を参照したい。見田は、現実(リアリティ)には3つの反対語が存在することを指摘する。<理想と現実>、<夢と現実>、<虚構と現実>。この3つの語によって、戦後、1945年から1990年代初頭までの時代を3つに区分できるとするのが、見田の認識である。1945年から60年ごろまでの理想の時代。60年から70年代前半までの夢の時代。そして、70年代中葉から90年代までの、虚構の時代。

 虚構の時代の都市について、見田はこう述べる。

1980年代の日本を、特にその都市を特色づけたのは、リアリティの「脱臭」に向けて浮遊する<虚構>の言説であり、表現であり、また生の技法であった。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』p11

  〈虚構〉。『機動警察パトレイバー2 the Movie』の作中で繰り返し現れるモチーフだ。虚構という言葉じたいは、作中でおそらく一度しか用いられないが、虚構のミサイル、幻の爆撃機、不確かな平和...。

 そして虚構の都市として、テロリスト柘植が東京をとらえていたことはラストの告白でも明らかだ。

 「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える。そう思わないか」
 

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柘植のリアルと「東京」のリアル

 「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える」。柘植のいう「ここ」が、実際の場所、18号埋め立て地のみをさすのではないことは明白だろう。柘植の立っている場所、それはPKOで経験した戦場という地獄、その究極的に身体に迫るリアリティ。それらに裏打ちされた「現実」に他ならない。

 戦場という究極のリアルを体験し、そしてその中で多くを失った柘植にとって、東京という都市の虚構性はもはや耐えがたい空疎なものであったのではなかろうか。〈虚構〉の都市を、究極の「現実」たる戦争のただなかにおき、そのリアリティを奪取すること。これこそがテロリスト、柘植行人の目的なのである。

 

 東京の虚構性に対して戦いを挑んだ、という点において、柘植は前作『機動警察パトレイバー the Movie』で東京の開発を押しとどめようとした、帆場暎一と共通するものがあるのではないか、と僕は思う*1

 しかし帆場と柘植は、もちろん決定的に異なる。帆場が〈虚構の都市〉に対置したのは、「古き良き東京」。彼の移動の足跡が、それをなによりも雄弁に物語る。そこで生きた人々のリアリティを以て、帆場は〈虚構の都市〉東京の虚構性を暴こうとした。対して柘植は、かつて東京に存在などしたこともない、「地獄の戦場」の現前をもって、その虚構を完膚無きまでに破壊せんと試みる。

 帆場の戦略には、確かにそれを裏打ちするものが東京という場に確かに存在した。それがたとえ消えゆくものだったとしても、「古き良き東京」には実在のリアリティがあった。しかし「戦場の現前」を目指す柘植の戦略は、もはやリアリティを欠いている。戦中、確かに東京は米軍機の爆撃を経験した。しかしそれと柘植の「戦場」は、はたして接続しうるものだろうか。

 かつて究極のリアルをその身体を以て経験したはずの柘植が、しかしもっとも東京のリアリティから遠ざかってしまっているという逆説。この逆説が暴かれるのが、本作のクライマックスに他ならない。東京と戦場との接続の不可能性が、東京をリアルに生きてきたものの一人である南雲の語りによってあらわになる。

 

それでも〈虚構〉を生きる。

柘植「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える。そう思わないか」

南雲「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの?」

柘植「3年前、この街に戻ってから俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局最初の砲声が轟くまで誰も気付きはしなかった。いや、もしかしたら今も」

南雲「今こうしてあなたの前に立っている私は、幻ではないわ」

 

 たとえ〈虚構の都市〉であっても、その虚構をまさにリアルとして生きる人々がいる。その姿は、都市を映すカメラのなかで、執拗に描かれてきた。その虚構のなかを、しかしそれでも生きる人々を見落としたこと。目に映そうとしなかったこと。それこそが柘植の決定的な蹉跌であり、「地獄の戦場」を生きてしまったという悲劇が、彼にその宿命的な視野狭窄を生じせしめたのである。

 柘植のいる18号埋め立て地へと、レイバー隊が突入するために使った戦略もまた、柘植の思想に対するアンチテーゼとして捉えることも可能ではなかろうか。彼らが使った侵入経路、それは「幻の新橋駅」。昭和18年に閉鎖されたというそれは、「蜃気楼」のような〈虚構の都市〉における古層であり、そのリアリティの象徴でもある一方で、虚構と重なるようなイメージでもある「幻」なる形容詞を付されてもいる。蜃気楼のような東京の、確かなリアルこそ、柘植のぶちあげた「戦場のリアリティ」に対置されるものであることが、ここでも明確に示されているわけだ。そしてそれを突破口として、東京に生きる者たちのリアリティが、柘植の「戦場のリアリティ」を凌駕し、それもひとつの〈虚構〉にすぎないことをシニカルに暴いたのである。

 

 その柘植に従った一団の思いは、作中では。語られることはない。それを類推するならば、〈虚構〉を生きることに疲れ、「リアリティ」を奪取したいという欲望こそ、彼らを柘植という男にいざなったものではなかろうか。〈虚構の都市〉にあって、その欲望はだれしもが心に宿すものなのかもしれない。

 本作が公開された2年後、都心で未曽有のテロ事件を起こすにいたったオウム真理教の信者たちの心性と、これはオーバーラップするんじゃなかろうか。あの事件によって、本作はある意味で現実の予言としても機能するようになってしまったんじゃなかろうか。

 オウム真理教の理念に従ってテロ事件を画策した者たちが、許されざる犯罪者であり、その実践に社会的な意義など見出しようがない*2のと同様、柘植のシンパたちの行動もまた、空をつかむような虚しいものにすぎなかった。〈虚構〉を生きることに疲れて、それを打破するために「戦争」という極限状況に身を置こうとする短絡。それがまた〈虚構〉に耽溺することに他ならないと、後藤は喝破する。

「荒川さん、あんたの話面白かったよ。欺瞞に満ちた平和と真実としての戦争。だがあんたの言う通りこの街の平和が偽物だとするなら、奴が作り出した戦争もまた偽物に過ぎない。この街はね、リアルな戦争には狭すぎる」

 「戦争はいつだって非現実的なもんさ。戦争が現実的であったことなど、ただの一度もありゃしないよ

  後藤の語りは、かつてのユーゴスラヴィアや現在のパレスチナなど、実際に血の流れている場所に生きる人々にとっては、ふざけたフィクションにすぎないかもしれない。しかしそれでも、戦後の東京に生まれ、生きたものにとっては一面の「真実」なのだ。

 いや、戦後にとどまらず、東京にとって戦争とは一度も現実であったことなどないのかもしれない。大東亜共栄圏やら万世一系やらというフィクションなくして、かつての侵略戦争を語ることはできないだろう。戦争の裏には、多かれ少なかれフィクショナルな「理想」が存在する。そうでなければ戦争という現実を生きることなど不可能なのではないか。そこまで考えを巡らせると、「戦争が現実的であった」ことなどないとする後藤の主張もより普遍化可能なものとして読める気もする。

 

 なにか他の「現実=リアリティ」によって、都市とそこに生きる人々の〈虚構〉を暴こうとする試みは、それ自体もまたリアリティを脱臭されて、また別の〈虚構〉をぶちあげてしまうしかなくなる。〈虚構〉の打破の不可能性こそ、柘植の計画がその意図から離れて、不可避的に明らかにしてしまったものなんじゃないか。〈虚構〉を打破するのではなく、その中でリアルを生きること。それこそが都市に生きるということなのかもしれない。

 

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【作品情報】

‣1993年/日本

‣監督:押井守

‣脚本:伊藤和典

‣演出:西久保利彦

作画監督黄瀬和哉

‣出演

 

*1:僕が帆場をどうとらえているのかについて、詳しくは 『機動警察パトレイバー the Movie』と「東京」の創造と破壊―ロマンチストとしての帆場暎一 - 宇宙、日本、練馬 をお読みいただければ。

*2:と僕は思う

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