『アポカリプト』をみた。マヤ文明末期、故郷の村を滅ぼされ、捕縛された主人公が、身重の妻と息子を目指して逃亡するお話。周囲の人間が面白い面白いと評価するので見てみたんですけど、いや、彼らの目は確かだった。最初から最後まで息もつかせぬ面白さ。以下で簡単に感想を。
絶望的な逆境、そして逃亡
この映画はおおきく2つに区切れるんじゃないかと思う。主人公ジャガーパウ(ルディ・ヤングブラッド)の村が焼き討ちに遭い、そして敵の部族の都市(チチェン・イッツァか?)に連れ去られ処刑されようかという前半と、奇跡的な偶然から処刑を免れて妻と子のもとへとひたすら逃亡する後半。荘厳な皆既日食を境に、一気に物語が転換する。
前半の襲撃から輸送のシーンのむごたらしさといったらない。平和だった村はあっという間に炎上して血の海と化し、抵抗むなしく屈強な男たちすらなすすべなく捕えられる。輸送の過程で瀕死の人間が残虐になぶられ、衰弱していく様をこれでもかと描写する。
極めつけは、都市の神殿での儀式的な処刑のシーン。生きながらにして心臓をえぐりだされ、首を切り落とされるその様を、一人目はは第三者の視点から、二人目はまさしく処刑されるその人間の視点から、スクリーンに映し出す。絶望的な逆境はまさにここに頂点を迎えるわけだ。この前半のじめじめとしたバイオレンスは、正直じわじわと精神を削り取っていく感覚があって、あんまり見直したくない。そう思わせるだけの力があるってことは、それだけ優れているということなんだろう。
この残虐な前半パートは、マヤ文明=未開=野蛮みたいなステレオタイプというか、そんな意識も見え隠れするような気もして。しかしまあ、彼らの合理性の水準と我々のそれとは理解困難なほど隔絶していることは想像に難くない気がするし、野蛮なものとしてフィルムに切り取ることを、ことさらにオリエンタリズム的に非難してもしゃーないという気もする。
ひたすら苦難に耐えしのぶ前半は、皆既日食という神秘的な現象をターニングポイントとして終局を迎え、そこから主人公が決死の逃亡を続ける後半へとノンストップで接続される。後半でも主人公は苦難に襲われ続けるわけだけれども。
この後半の逃亡劇は抜群に面白い。なによりジャングルを疾走する主人公、ジャガーパウの姿。本当に生まれてから今までジャングルを駆け回ってきたんじゃないかという説得力があって、この走りが逃亡劇の魅力の一つを構成していることは間違いない。そしてそれを追う戦士たちもいい。この屈強さ。
彼らに対するジャガーがまたかっこいい。絶望的な状況でもひたすら前進し、故郷の森に入ったならば地の利を生かし迎撃する。さながらホームアローン。というわけでこの逃亡劇は本当によくできている。
ここからが本当の地獄だ...
本作の時代背景となるのは、先にも述べたようにマヤ文明の末期。これが結末に大きな意味を持つ。必死の抵抗を試みながらも、精も根も尽き果てて追い詰められたかに思われたジャガーパウ。しかし偶然にもそこに上陸したスペイン人によって、ジャガーは九死に一生を得る。別にスペイン人が彼を助けたとかではなく、単に全く未知の人・モノをみた追撃者たちがそちらに目を奪われたことによって、ジャガーはまったく問題ではなくなったというだけのことであるが。
マヤ文明を滅ぼし、原住民を虐殺したコンキスタドールが、主人公の命を救うという逆説。この映画では、スペイン人による侵略は描かれないし、言及されることもない。むしろ彼らの上陸こそが、主人公の経験したそれとは比較不可能なほどの苦しみ、いわば本当の地獄が現前するだろうにも関わらず。ここらへんに、「野蛮を文明化した」という西欧の人間の驕りというか、侵略ではないモーメントに目を向けさせようとする狡知があるんじゃないか。西欧の侵略によるマヤ文明の滅亡を、むしろ「良いこと」だと喧伝しようとするプロパガンダ的な側面をかぎ取ってしまうことは不自然ではないような気が。監督は『パッション』のメル・ギブソンさんだけに。
活劇として優れた映画だと思うだけに、スペイン人による「黙示録」的な侵略を示唆しなかったという点が、小骨のように引っかかっちゃうんだよなあ。ともあれとんでもなく面白かったです、はい。
【作品情報】
‣2006年/アメリカ
‣監督:メル・ギブソン
‣出演(日本語吹き替え)
- ジャガーパウ:ルディ・ヤングブラッド(高橋広樹)
- セブン(ジャガーの妻):ダリア・エルナンデス(甲斐田裕子)
- ミドル・アイ(襲撃者/追跡者):ヘラルド・タラセーナ(東地宏樹)
- ゼロ・ウルフ(襲撃者のリーダー):ラオウル・トルヒーヨ(飯塚昭三)
- 女性:マイラ・セリヴルオ
- ブランテッド:ジョナサン・ブリュワー
- フリント・スカイ:モリス・バードイエローヘッド