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「持てる者」=伊原摩耶花と「持たざる者」たち――アニメ『氷菓』「クドリャフカの順番」編 感想

 

  昨日書いたこの記事で、『氷菓』の「クドリャフカの順番」編は「持たざる者」の物語である、ということを書いたんですが、それは「クドリャフカの順番」編のほんの一片をすくい取って語っているにすぎないと思うんですよ。当たり前のことかもしれないですけど。「持たざる者」が、「期待」を通して「持てる者」に望みを賭ける。そこで生じる「持てる者」と「持たざる者」の生が交錯する瞬間こそ、「クドリャフカの順番」の魅力であるというか。そのことを、ヒロインの伊原摩耶花に焦点を当ててちょっと書いてみたいな、と思います。

 伊原摩耶花は、「持てる者」である

「言わなかったっけ、僕には才能が無いって。例えば、僕はシャーロキアンに憧れてる。でも、僕はそれにはなれないんだ。僕には、深遠なる知識の迷宮に、とことん分け入っていこうという気概が決定的に欠けている。もし摩耶花がホームズに興味を傾ければ、保障していい、3ヶ月で僕は抜かれるね。色んなジャンルの玄関先をちょっと覗いて、パンフレットにスタンプを押して回る。それが僕に出来るせいぜいのことさ。第一人者にはなれないよ*1

 これは、「愚者のエンドロール」編で、「お前にしかできないことがあると思うか」と奉太郎に問いかけられた里志が、「無いね」と即答した後に続けた台詞。「持たざる者」としての自意識に苛まれる福部里志の屈折が台詞として発露した(多分)初の場面はここなんじゃなかろうか。

 そこで摩耶花は、明らかに自分とは違う位相に身を置く存在として認識されている。なろうと思えば、「シャーロキアン」になれるであろう摩耶花。「何者にもなれない」と自嘲し、それに苦しみもがく里志にとって、これはこれ以上ないほめ言葉だと僕は思うわけです。

 だから、たとえ『夕べには骸に』や『ボディトーク』より「百枚落ちる」漫画しか今は書けなくても、摩耶花は「持てる者」に他ならないんじゃないか。少なくとも里志にとってはその位置にいることは間違いない。この位置関係は、アニメ版でより強く打ちだされていることは明らかだ。以下で原作『クドリャフカの順番』と、アニメ17話「クドリャフカの順番」における里志と摩耶花のやりとりの違いを確認しよう。

 こっちが原作。

摩耶花の次の言葉は、だから聞こえないふりをすることもできた。

「・・・・・・ふくちゃんは、折木に勝ちたかったの?」

 けれどこれは聞き逃せない。そうじゃない。そんなつもりは、全然なかった。ただ・・・・・・。

「これはねえ。微妙な男心ってやつだよ。こればっかりは、摩耶花にもわかるまいね」

 横目で見ると、摩耶花のくちびるが少し動いた。声は出なかったけれど、僕にはその動きは、「そんなことない」と言っているように見えた。ただ、摩耶花があまりに静かな顔になっているものだから、僕はそれを見なかったことにした。

 こっちがアニメ版。

「・・・・・・ふくちゃんは、折木に勝ちたかったの?」

勝ちたいわけじゃなかったけど、見上げてばかりじゃね。こればっかりは摩耶花にはわからないだろうね。」

「・・・・・・そんなことない」

 どちらも、「里志は、自分の感情を摩耶花には理解されないと勝手に思い込んでいる」という構図は同様だろう。しかしその「理解されない」理由が、原作の文脈だと「女だから」わからない、という風に読むのが自然になってしまう。摩耶花が「微妙な男心」を解さないからこそ、「わかるまいね」という句が出てきたというように。

 しかしアニメ版はそうした読解を許さない。「微妙な男心」なんてセンチメンタルでエゴイスティックなかほりも漂う表現を排し、むしろ地の文の意を汲んで台詞が改変されている。アニメ版「クドリャフカの順番」において、里志が摩耶花に「理解されない」と思いこんでいる理由は、先に引用した「愚者のエンドロール」の台詞から考えれば明白だ。摩耶花が里志を理解できない理由、それは摩耶花が何者かになれる可能性を持っている者、つまり「持てる者」であるからにほかならない。

 

「持てる者」は「持たざる者」を理解できないのか?―「そんなことない」

 しかし、「持てる者」たる摩耶花は、「持たざる者」たる里志を本当に「わからない」のだろうか。「そんなことはない」。その問いの答えには、摩耶花のこのセリフこそがふさわしい。

 摩耶花がこの答えに辿りつけたのは、カンヤ祭での漫画研究会の河内亜也子への交感を経たからに違いないと僕は思う。『夕べには骸に』に対する、河内の愛憎半ばするようなどろどろした感情。「持たざる者」の苦しさと悲しみ。摩耶花は自身の漫画の技量の拙さを、自覚してはいる。しかし多分それが、「持たざる者」としての感覚に接続されるほどの経験は、おそらくまだしていなかった。

 河内にとってのそれは、「あんまり漫画読まないねって思ってた友達」=安城春菜が、傑作をものにしてしまうという事態だった。そのことが、河内にとって自身が「持たざる者」に他ならないと気付かざるをえないような決定的な経験であり、だからこそ『夕べには骸に』を心の奥底にしまいこんで見なかったことにしたのだ。

 摩耶花がどこかで、そんな決定的な経験を得ることがあるのだろうか。それはわからない。少なくない月日を過ごしてきた里志をして、「3か月で僕は抜かれる」と言わしめる彼女のことだ。他者とのコミュニケーションで辛酸をなめることはあったとしても、そんな挫折なんて知らない世界で「持てる者」として生きていくのかもしれない。

 しかしそれでも、「持たざる者」のことが理解できないなんてことはない。河内との交感を経て、彼女は「持たざる者」の悲哀を間違いなく理解した。自身の漫画の技量をもって、自身もまた「持たざる者」の一人である、という感覚すら抱いたかもしれない。

 この「持たざる者」の感覚って、人が前に進むためにはいつか向き合わなきゃならないことだとも思うんですよ。「持たざる者」の感覚を得ることは、「可能性の断念」と言い換えてもいいのかもしれない。細田守版『時をかける少女』も、ある意味そういうお話だともいえる。

  涼宮ハルヒの視点からみた『涼宮ハルヒの憂鬱』もまた、そういう意味での成長譚なのかもれない。

 

 

 というわけで、「持たざる者」の悲哀が先鋭化する「クドリャフカの順番」編はアニメ『氷菓』の中でも最も青春もののかほりが漂うエピソードなんじゃないかと。それが学園祭というこれ以上なく「青春っぽい」舞台で繰り広げられるのも。学校における日常と非日常。そこで語られる「持たざる者」たちのドラマ。そんなのが『氷菓』という作品の魅力なんじゃないかと僕は思うのでした。

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(2015/11/09追記)この記事で考えたことをさらに敷衍して書いたのが上の記事。「持てる者/持たざる者」という言葉を作品内の言葉を使っていいかえると多分、「特別/普通」になる。

 今この記事を読みかえすと、摩耶花=「持てる者」=「特別」という見立ては牽強付会というか、里志の目線を信用しすぎているかも、とも思ったり。この記事の後半にも若干言及してはいますが、たとえシャーロキアンになれても、漫画を描く才能という点においては摩耶花は漫研の先輩に「何枚も落ちる」わけで、そうすると摩耶花もまた大きな範疇では里志と同じ位置にいるのかも、とも。

 

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*1:原作『愚者のエンドロール』ではシャーロキアンではなくホームジストになっているのだけれども、この置き換えが意味するところはなんなんですかね。オーコメとかで言及されているのだろうか。