今日の未明、どうにも眠れる気がしなかったんでなんとなくマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をぺらぺらめくってたんですが、いや何故か妙に引き込まれて、結局今日一日で通読してしまいました。以前に頁を最後までめくってみたときは、それほど熱心に読めなかったんですが、いや今回はめちゃくちゃ惹かれるものがあったというか、頭に入ってくる感じがあったんですよね。苦悶の叫びをあげながら頭を抱えて読み進めている『古代ユダヤ教』より全然頭に入ってきた感じがある。せっかくなので要約チックなものを書き留めておこうかなと思います。
第1章 問題
1 信仰と社会層分化
プロテスタントの経済的成功
第1章第1節の導入部分で提起されるのが、「近代経済においてプロテスタントが上の方の地位を占めてないか?」という疑問。そこから踏み込んで、なぜプロテスタントが資本主義に適合的なのか?という問いが提出される。それにこたえるために、初期のプロテスタンティズムの精神を見ていく必要があると。
古プロテスタンティズムの精神における一定の特徴と近代の資本主義文化との間に内面的な親和関係を認めようとするならば、・・・むしろ古プロテスタンティズムのもっていた純粋に宗教的な諸特徴のうちに求めるほかないのだ*1
2 資本主義の「精神」
資本主義の精神とは?
初期のプロテスタンティズムを分析に入る準備として、そもそも資本主義の「精神」とはなんぞや、ととりあえずの説明が行われるのがこの第2節。ウェーバーはその定義の困難さを語り、定義を示すのではなく例を示すことでその説明に代える。
その例示として引かれるのが、ベンジャミン・フランクリンの説教というわけだ。この説教の中に、資本主義の「精神」が「ほとんど古典的と言いうるほど純粋に包含」されているとウェーバーはいう。「時は金なり」「信用は金なり」といったベンジャミン・フランクリンの言葉には宗教的な色彩は一見したところ見て取ることはできないし、彼自身も特定の宗派に属していない理神論者であった。にもかかわらず、そのような主張の背景を語る際、「あなたはそのわざ(Beruf)に巧みな人を見るか、そのような人は王の前に立つ」という聖書の一節を引用してるんだってさ。この「神から与えられた使命」の感覚が、ウェーバーにとってはプロテスタンティズムと資本主義の「精神」を架橋するものであるととらえられているような感じがある。
フランクリンが語るような「倫理的な色彩をもつ生活の原則という性格」、純粋に自己目的的であり、営利が人生の目的とされ、天職として組織的合理的に営利を追求する...みたいな、精神をもった人間は、近代の資本主義社会では当たり前のようにいるわけで、それに適合的でない人々が淘汰された結果、そのような精神が支配的になったんじゃねーか、という疑問もあるだろう、とウェーバーは述べる。確かに、近代的資本主義では不適合な者は淘汰される。しかしそれではその近代資本主義の精神の成立は説明できないのだ!ということもまた述べるわけです*2。
伝統主義との対決
そうした資本主義の精神が成立する以前は、どのような価値観が支配的であったのか。資本主義の精神に対立するものとしてウェーバーが措定するのが、「伝統主義」である*3。伝統主義的な人々は、その日その日の必要を満たすことで満足、生産性を上げるという発想がない。いわばその日暮らし的な感じだろうか。そのような人々が、「時は金なり」的な発想で労働にいそしみ、禁欲的に自らの生活を律する姿を想像するのは難しい。宵越しの銭をもたないようでは、現代社会で生きることはまあほぼ不可能と言っても過言じゃないんじゃなかろうか。
そうした伝統主義は、いかにして駆逐されるにいたったのか。そもそも、資本主義的な経済に巻き込まれること(=貨幣の侵入)によって、否応なしに資本主義的な精神を身につけざるを得なかったのでは、という回答もありうるだろう。しかしウェーバーは、貨幣でなく資本主義精神の侵入こそ人々の生活を変えたんだと力説するわけです*4。
そのような精神の決定的な転換は、どのような主体に生じたのか。それは大富豪ではなく「厳密に市民的な物の見方と「原則」を身につけて熟慮と断行を兼ねそなえ、とりわけ醒めた目でまたたゆみなく綿密に、また徹底的に物事に打ちこんでいくような人々*5」に生じたのだと。現在ではそのような人々は教会との関係は薄いように思われる。が、しかし、そうした人の精神の古層こそ、本書の問題であることはいうまでもなかろうかと思います。
「経済的合理主義」
近代経済の基調を、「経済的合理主義」 とウェーバーは名指す。それは大航海時代における、「政治上の利権とか非合理的投機を生命としていた「冒険商人的資本主義」とはまったく異なっている*6」と。
「資本主義精神」の発展は合理主義の巨大な発展の部分現象とも捉えることができるとも思われますが、しかしそうした合理主義の発展は個々の領域で並行して行われたわけではないんだよと。
「資本主義精神」の発展に大きく関わる「天職(Beruf)」概念は、ある角度からみると、非合理的なものにもみえる。純粋に幸福主義的な利己心の立場からすると、それは非合理的な観念なんじゃないかとも思える。そうした合理主義的な観念のなかに存在する、この非合理的要素はどこからきたのか?ということで、次節ではその「天職」概念の創造者とウェーバーが見立てるルターの思想の分析に入っていくわけです。
3 ルターの天職観念―研究の課題
訳者の大塚久雄が天職と訳出しているBerufという語なんですが、その含意をもつ言葉はプロテスタントの優勢な民族以外には見いだせないんだそうで。Berufには職業と、神から与えられた使命という意味とを含んでいる、と大塚は述べているんですが、日本語の「天職」だと「神から与えられた」という側面がちょっち抜け落ちてる気もするし、単に「職業」という意味でもつかわれないですもんね。
このBerufはどこからきた言葉なのかというと、それはルター*7による聖書の翻訳に由来しているとウェーバーは主張する。そして語義だけでなくその「天職」という思想も宗教改革の産物であるとし、世俗の職業生活に道徳的性格を与えたんだと。しかし、ルターそのものに資本主義の精神は認められないと但し書きがつく。
資本主義の精神とより深くかかわるのが、カルヴァン派とその流れをくむ諸信団(ゼクテ)である。しかし、そうした彼らも倫理的文化を目標としてはいなかった!*8
われわれが確認しようとしているのは・・・、ただ、問題の「精神」の質的形成と全世界にわたる量的拡大のうえに宗教の影響がはたして、また、どの程度に与って力があったかということ、および資本主義を基盤とする文化のどのような具体的側面がそうした宗教の影響に帰着するのかということだけなのだ*9。
このようなことが、次の2章で検討される。
第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
1 世俗内的禁欲の宗教的諸基盤
禁欲的プロテスタンティズムの担い手たちとして、ウェーバーは以下の4つを挙げる。
1. カルヴィニズム
2. 敬虔派 パイエティズム
3. メソジスト派
4. 洗礼派運動から発生した諸信団(ゼクテ)
それぞれ道徳的生活態度は相似しているんだってさ。その教理の基礎、根源的な思想内容、来世の思想との結びつきを知る必要があるとして、以下でカルヴァン派から順にその理念型を考察していくような構成。
カルヴィニズム
カルヴァン派の教義の中で、ウェーバーが最も重要視するのが、予定説である。1647年のウェストミンスターの信仰告白において見出されるような、「救われる者と救われない者とが、神の意志によってあらかじめ定められている」という見立てが予定説である。
その予定説は、人々にどのように影響を与えたのか?ウェーバーによれば、それは「個々人のかつてみない内面的孤独化の感情」を呼び起こしたという。現世に存在する誰も、個人を助けることはできない。選ばれたものだけが神の言を霊によって理解し得るのだから、牧師も、聖礼典も助けることができないのだ。このことが、教会や聖礼典による救済を完全に廃棄した、このことこそ、プロテスタンティズムの倫理にとって決定的だった点だとウェーバーは主張する。そうして、「呪術からの解放」が達成されたのだと。
世界を呪術から解放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの解放の過程は、ここに完結をみたのだった*10
孤独と救い
さて、予定説が個人にもたらしたのは、孤独の感情であると先に述べたわけだが、人々はその孤独化をどう堪え忍んだのだろうか。
そこで重要になったのが、「救いの確信」だという。その救いの確信を得るための方策として、二通りの手段が示される。
1. 自分は選ばれているのだとあくまで考える
2. そうした自己確信を獲得するため、絶え間ない職業労働をきびしく教えこむ
この2点目が、まさにプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を接続するものである。
カルヴァン派は自分で自分の救いを―正確には救いの確信を、と言わねばならない―「造り出す」のであり、しかも、それはカトリックのように個々の功績を徐々に積み上げることによってではありえず、どんな時にも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一のまえに立つ組織的な自己審査によって造り出すのだ*11。
「不断の自己審査」と、「自己の生活の計画的な規制」こうした規律の内面化ともいうべき機制が、予定説から巡り巡って生じるのだ。ここらへんの議論は、フーコーの述べる規律訓練的な権力の在り方と結構重なるんじゃねーかと思ったりしたんですが、どうなんだろうか。 どちらも修道院とも関わる問題だし。
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修道院とカルヴィニズム
「心情」倫理的であったカトリックに比較すると、カルヴィニズムは組織にまで高められた行為主義であり、生活態度の全体にわたって、一貫した方法が形づくられていたという。
しかしそれを純粋にカルヴィニズムが発明したというわけではない。それと類似したキリスト教的禁欲の在り方には、中世以来の修道士生活も存在した。その合理主義的生活態度「一時的な感情」でなく「持続的な動機」の重視、「全人格の組織的な把握」などは、カルヴィニズムにおける禁欲とも重なる部分がある。
しかし、カルヴィニズムにおいては決定的に重要なのは、禁欲が世俗的なものに造りかえられたことである。修道院では、その内部でのみ、禁欲的な生活態度が堅持されたわけだが、カルヴィニズムはあらゆる信徒にそれを要求したのである。ウェーバーは、セバスティアン・フランク*12の言葉を印象的に引用する。
「すべてのキリスト者は生涯を通じて修道士とならねばならなくなった」
その際に、予定説が禁欲へと人々を駆り立てる積極的な刺激となった、とウェーバーは再三強調する。そうしたカルヴァン派の倫理的生活態度は他の改革派的教説にも影響を与えていったんだよー、というわけで、以下で他の改革派を分析に俎上にのせる。
ドイツ敬虔派
ルター派の影響を受けたドイツ敬虔派予定説の基礎からは離れるが、「予定説を最高の帰結とするあの思考様式の領域から必ずしも逸脱してしまったのではない*13」そうで。とはいえ「禁欲の宗教的礎石には動揺と不安定」だったとウェーバーは述べ、その原因をルター派の影響と感情的性格なんかに帰しているようでした。
メソジスト派
メソジスト派はイギリスとアメリカにおける敬虔派の対応物である、とウェーバーは見立てており、敬虔派と同様に倫理の基礎がゆれ動いているとして簡潔に叙述するにとどまっている。敬虔派とメソジスト派はそんなに重要じゃないっぽい。
洗礼派とそれから派生した諸信団
上の二派をそれほど重要視していないと思われるウェーバーが、カルヴァン派とならぶ、プロテスタント的禁欲の独自な担い手としているのが、洗礼派とその分派。
これらの諸宗派は教会ではなく信団(ゼクテ、「自ら信じかつ再生した諸個人」からなる)を構成しているところに共通点があり、また経済的関心も強かった。
その要因として、
1. 官職につくことの拒否
2. 貴族主義的な生活様式に対する頑強な敵対的態度
が挙げられる。
彼らがカルヴィニズムに見られるような世俗内禁欲を強めた理由として、教会規律から出発せずに、むしろ禁欲的宗教意識の個々人による主観的獲得が生活態度のうえに特徴的におよぼした作用から出発していることが重要らしい。上のゼクテの問題とも絡んでくるところっぽいですね。
かくして、禁欲は修道院と関係を断ち、「世俗的日常生活の内部にその方法意識を浸透させ、それを世俗内的な合理的生活―しかし世俗によるでも、世俗のためでもなく―に改造しようと企てはじめた」わけです。
その結果こそが、次節で明示されるんですね。
2 禁欲と資本主義精神
禁欲と資本主義の精神の連関を示すためにウェーバーが分析するのが、ピューリタンであるリチャード・バクスター。
彼が書いた文章、『聖徒の永遠の憩い』では、地上の財の獲得の努力に反対して禁欲が説かれる。時間の浪費が罪悪と見做す点で、フランクリンと相似している。また剤の獲得のための絶え間ない労働が奨励され、そのため天職という理念が主題化される。
「現世とそれが与える楽しみのこだわりのない享楽」への反対から、文化や遊戯に対しても敵対的であった。ピューリタンは職業労働や信仰を忘れさせるような衝動的な快楽は禁欲の敵であり、「そのためには何の支出もしてはならない」ものと捉えられていたのである。
まとめ
「富を目的として追求することを邪悪の極致としながらも、職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵」とする逆説的な価値観が、禁欲的強制による資本の形成を導いた。ピューリタニズムの人生観は、市民的な、経済的に合理的な生活態度へ向かおうとする傾向に対して有利に作用したのである。
「われわれはすべてのキリスト者に、できるかぎり利得するとともに、できるかぎり節約することを勧めねばならない。が、これは、結果において富裕になることを意味する」
ジョン・ウェズリーがこう述べたときには、資本主義の精神の中に宗教的な要素は既に薄くなっていた。宗教的な熱狂が醒め、功利的現世主義が前面に表出する。孤独な巡礼者に代わって、「ロビンソン・クルーソー」=伝道もする孤立的経済人が姿をあらわしたのだとする。そうした宗教的基礎の欠落が、冒頭部分で引用したフランクリンの説教にまさに現れているのである。
もはや現代では、天職義務の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として徘徊しているに過ぎない。宗教から遠く離れて、しかし加熱がやむことを知らない資本主義の精神は、いったいどこに辿りつくのだろうか。ニーチェを援用しながら、ウェーバーは預言者めいた言葉を残す。
こうした文化発展の最後に現れる「未人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。
かつては大塚久雄によって、「近代の逸脱」への嘆きとして受け取られたのも今は昔。いまや近代というものに不可避的に内在するものとして、このウェーバーの予言は解釈されているように思われる。山之内さんの解釈とかね。近代の「鉄の檻」のなかで、如何に生きるのか、というのはウェーバーが現代に遺した巨大な問いという感じがします。
こののち、積み残した課題が言及され、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はおしまい、という感じ。後半だれてきて露骨に適当になっているのがありありとわかる感じになってしまいましたが、またなんかで加筆するかも。しないかも。
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