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追放者の価値ある生―『楽園追放 -Expelled from Paradise-』感想

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 『楽園追放 -Expelled from Paradise-』を観てきました。なんだかSFものっぽいらしいことと、主人公がえっちな格好をしてるということ以外は全然情報をいれずに観たのですが、大変満足いたしました。以下で感想を。

 フルCGもここまできたのか

 先日書いた『インターステラー』とまったく同じことから筆を始めることになってあれなんですが、この『楽園追放』もやっぱりヴィジュアルの魅力が半端じゃなかった。

愛は恒星間を超える―『インターステラー』感想 - 宇宙、日本、練馬

  最近は『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』やら『シドニアの騎士』やら*1、高クオリティのフルCGのTVシリーズも増えているような印象があったんですが、『楽園追放』も素晴らしかった。劇場アニメだけあってか、動きの違和感は全く感じなかったし、セルアニメと見まごうシーンも少なくなかった。

 それと表情の豊かさ!主人公アンジェラ・バルザックが、結構漫画チックに表情をころころ変えるのが印象的で、このコミカルでエモーショナルな感触をフルCGアニメで得たのは初めてかも。その豊かな表情が最終決戦をより魅力的な場面にしていると思いました。アンジェラたんはえろい格好してるだけじゃなくて、とっても応援のし甲斐があった。

 そうした人物の魅力はもちろんのこと、CGの十八番ともいえる(と僕が勝手に思っている)メカニックの動きもすんばらしかったですね。宇宙空間でのサーカス的なドッグファイトとか、廃墟の街での超高速戦闘とか。主人公の駆るアーハンが序盤も序盤、早々にガラクタと化して売りに出されてしまったときはびっくりしましたが、敢えてメカニックを後半まで温存していたからこその、後半の爽快感ぱない。一連の戦闘シーン誰でも観に来た価値があった。

 

「楽園」を追放されても、生きる価値は失われない

 そんないわば「見た目の魅力」がガンガン発揮されている『楽園追放』は、お話の方はびっくりするくらいの王道だったと僕は感じました。全く異なる文化的背景をもつ二人が、共通の目的に向かって旅をしていく序盤から中盤はなんてSF的な舞台ながらもまさしく王道のロードムービーじゃないかと。

 「楽園」で育ったアンジェラが、ディンゴとの旅、そして未知なる他者との遭遇を経て、その価値観を揺さぶられる。各個人に無限の可能性が開かれるとされ、人類が到達した「楽園」であるかに見えた電脳空間ディーヴァも、実際には新自由主義的な原理が純粋に透徹する、弱肉強食の競争社会でしかなかった。このディーヴァの実情の伏線として、アンジェラの奇妙なまでに「同僚を出し抜いて成果を挙げようとする」行動原理が上手い具合に機能していて、大変スマートだなと。限られた時間を有効に使って、「楽園」そのものを描写することなく「楽園」の矛盾を提示して見せたという意味で。

 ディンゴや自我を得たAI=フロンティアセッターとの邂逅を経て価値観を変容させたアンジェラは、「楽園」にとって猛毒でしかない。結果として、彼女は「楽園」から追放されるというわけだ。その追放を、悲劇的に捉えるのではなく、また別の可能性に自らを開いていく契機として、楽天的すぎるほど楽天的に描いているのが『楽園追放』の作風というか、目指すところが明確に表れているなあと。地球は荒れ果て空気は埃っぽく、生身の肉体も電脳パーソナリティと比べて重い枷でしかない。

 アンジェラには、地球を離れ肉体を捨て外宇宙へと向かうという選択もあり得たはずだ。しかし彼女はそれを拒み、荒れた地球と重々しい肉体を受け入れる。その動機は、という問いに、今の僕は十全に答えることができない。

 さしあたっての回答を与えるならば、多分それは地球に生きることの固有の意味を見出したからだろう。作中でディンゴが語る、音楽を「骨で聴く」、という例はまさしく象徴的だ。肉体があるからこそ可能となる経験。それは序盤に彼女が全く拘泥しなかった満腹感や達成感のその意味に、その快さに、彼女自身が魅惑されていったと言い換えてもいいかもしれない。

 ただあくせく競争するのではなく、生きることそれ自体を楽しむ。そのことの楽しさを謳いあげているのが『楽園追放』なんじゃないかと僕は思うわけです。「楽園」での生も、フロンティアセッターの外宇宙への旅も、どちらもある目標に向けての目的論的発想に裏打ちされているという点では同型なような気もする。ただ体制内の秩序を維持するような運動と、むしろ秩序をはるかに越え出ようとする運動とで全く位相は異なるわけだけれども。そうすると、「楽園」を追放された彼女が、さしあたっては地球で生きることを選択したのはある意味必然だったのかもしれない。目的論的な行動は、もう機械に任せておけと。そんな未来があってもいいのかもしれない。

 

終末の過ごし方」としての『楽園追放』

 アンジェラを放逐した電脳空間ディーヴァは、異質な他者を排除し、その純粋性を保たんとする。自らの現状を最善の状態と規定し、変化を拒否する。フロンティアセッターという未知なる他者との接触を避け、破壊しようと試みることからもそれは明らかだ。そうすることによって、人類の到達した「楽園」たりえているかと言えば、事態が全く逆であることは上で述べたことからも明らかだろう。快適な生活を志向するならば絶えず競争に駆り立てられ、敗者はアーカイヴ化という名の死を余儀なくされるディストピア。人類は肉体から解放されて精神の自由を謳歌しているかと思いきや、むしろ自由に生きる余地はほとんどない。

 一方、地球は荒れはててはいるものの、地球を生きるものの代表者として登場するディンゴは、フロンティアセッターと積極的に交流を試みさえする。柔軟な発想という点では、ディーヴァ上層部と比べるべくもない。とはいえ、彼らの先行きが明るいかと言えば、それは決して異なるだろう。異質な他者を受け入れる寛容さが、地球を荒廃から救うと考えるのは、ナイーブに過ぎる。

 そう考えると、『楽園追放』は、人類の避けようのない終末を描いているのでは、なんて思うわけですよ。新たなステージに上ったと鼻を高くする電脳人たちは、自らが異質な他者を排除することで自身の可能性を狭め続けていることに気付きもしない。一方、地球に残る人々も、おそらく物理的な滅びは近い。そんな袋小路に立たされて尚、「よく生きよう」とするアンジェラとディンゴ。地球人の末裔としての役目は、人の造りしフロンティアセッターに託されたんじゃねーかと。その意味で、明るいけれども暗い、みたいなアンビバレンスな結末のように思えてならないわけです。

「楽園」とは―まとまりのない雑文

 虚淵玄が脚本を担当していることを考えると、『PSYCHO-PASS サイコパス』のシビュラシステム下の社会とか、『魔法少女まどか☆マギカ』の魔法少女の犠牲が必然として組み込まれたシステムとか、いろんなことが連想されたりされなかったりするわけですが、それはひとまず置いといて。

 ただその「楽園」を語るディンゴの語彙がいわゆる「新自由主義」を語るそれと全く同型だったことが、すげー印象的だったんですよね、はい。しかしそれから抜け出すには、追放されるしかない。追放されても単純に自由になるわけじゃなく、その日を生きることも苦労するような生が待っている。これ、現代社会の映し絵なんじゃね?みたいなことを考えたりしたのですが、不毛なのでこの辺で。『楽園追放』、大変楽しかったです。

【作品情報】

‣2014年/日本

‣監督:水島精二

‣脚本:虚淵玄

‣音楽:NARASAKI

‣出演

 

 

 

楽園追放 Expelled from Paradise 齋藤将嗣デザインワークス

楽園追放 Expelled from Paradise 齋藤将嗣デザインワークス

 

 

*1:後者はまったくの未見ですが...。