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戦場で、人間はマシーンになる―『フューリー』感想

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 貧乏学生にはありがたい映画の日ということで、雨の中『フューリー』を見に行ってきました。予告から『プライベート・ライアン』とか『ブラックホーク・ダウン』的なハードな戦争ものっぽい雰囲気を漂わせていた本作ですけど、その期待にたがわなかった。以下で簡単に感想を。

 戦車はヤバイ

 頭の悪い感想ですが、全体の印象を要約するとこれに尽きる。戦車はヤバイ。火力を発揮した戦車の前で、人間はあまりに無力。火砲を浴びて身体があっけなくはじけ飛ぶ様をストレートに描写しているからこそ、殺人マシーンとしての戦車の存在がこれ以上なく際立っている。

 クライマックスがドイツの誇るティーガー戦車との対決でなく、あくまで生身のドイツ兵との戦いをチョイスしたのも、間違いなくその殺人マシーンぶりを強調するためだろう。死闘の末ティーガー戦車を撃破して終幕なんてご都合主義は許されない。戦争の恐ろしさ、むごたらしさを強調するために、あえて爽快感を喚起するであろう互角以上の力を持つ敵をなんとかねじ伏せる、なんてドラマチックな戦闘でなくて、戦闘力では圧倒的に勝っている敵を相手に殺戮の限りを尽くす戦闘をクライマックスに持ってきたんじゃなかろうか。

 なぜ彼らが絶体絶命の状況で戦うのか、その戦闘の結果がどんな影響を戦局に及ぼしたのか。そんなことを敢えて過剰に説明しなかったのもいい。なぜ戦うのかという問いは戦場に身を置くフューリー号のクルーには不毛なものだし、もはや結果すら大した意味を持たない。語らないことが、そんな戦争という極限状況を伝えているんじゃなかろうか。

 

戦場で、人間は「マシーン」になる

 『フューリー』からどんな物語を取り出せるかといえば、一人の人間が戦争を遂行する機械=「マシーン」になる物語、それしかないと僕は思う。その意味で、戦争映画の類型でいえば、『プライベート・ライアン』『ブラックホーク・ダウン』よりも、『フルメタル・ジャケット』に近いという気がする。

 ただの人間から機械へと変貌を遂げる人物は誰かと言えば、初登場の場面からもやしっぽさを漂わすノーマン・エリソン二等兵(ローガン・ラーマン)だ。ブラッド・ピット演じるウォーダディーは、主要な人物ではあれど、主人公ではないという気がする。あくまでノーマンを変容させることに大きく関わる人物でしかないというか。

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 ノーマンは戦場ではじめて人を殺し、敵地の女性を半ばレイプし、次第に「マシーン」となっていく。ノーマンの意志はそこに介在する余地はない。「マシーン」にならなければ死ぬからだ。だからウォーダディは時には暴力的に、時にはなだめすかすような仕方で、ノーマンが「マシーン」に変容するよう仕向ける。それが生存率を上げるための手段だから。

 人間を規律訓練しあたかも部品の一部として運用するのは近代の軍隊の主要な特徴ともいえるが、『フューリー』の主要人物たちが戦車を駆るのは象徴的だ。乗組員がひとつの部品の如く機能しなければ、戦車は十全に能力を発揮できないという意味で、戦車は軍隊そのものの象徴として機能し得る。だから、ウォーダディたちは新米クルーであるノーマンを「マシーン」へと作り変えねばならないのだ。

 殺戮マシーンとしての戦車、そしてその部品足る人間。それを正面から描いているという意味で、『フューリー』は優れた戦争映画たり得ていると思う。そんなことを思ったのでした。

 

【作品情報】

‣2014年/アメリカ・イギリス

‣監督:デヴィッド・エアー

‣脚本:デヴィッド・エアー

‣出演

 

フューリー (角川文庫)

フューリー (角川文庫)

 

 

 

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