宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

他者を決然と隔てる扉――米澤穂信『さよなら妖精』感想

さよなら妖精 (創元推理文庫)

 年末から元旦にかけて、『さよなら妖精』をちまちま読んでいてですね。かほりたつ青春の毒気が心地よくていつまでも浸っていたいのと、結末が気になるのとで引き裂かれながら読み進め、めでたく新年最初に読了した本となりました。今ぼんやりと考えていたこととリンクするようなテーマだったので、ちょっと思ったことを書いておこうと思います。結末に触れると思いますので未読の方はご留意を。

 異なる立場にある他者と、はたしてわかりあえるのか

 物語は1992年、喫茶店で男女が1年前の出来事を回想するところからはじまる。岐阜県高山市がモデルと思われる架空の地方都市で、高校3年の守屋路行と太刀洗万智は、春雨が降りしきる中でユーゴスラヴィアから来た少女、マーヤと出会う。現在、紛争のさなかにあるマーヤは、はたして無事なのか。それを大きく左右する彼女の出身地を記憶から推理するために、守屋は彼女との短い交流の日々を回想する。

 日本という未知の地で出会う様々な出来事に、マーヤは「哲学的意味はありますか?」と問いかける。マーヤによって発見された「日常の謎」を、守屋くんや太刀洗さんが一応の解決を与えたりするなかで、次第に打ち解けていく。ぱっと見では理解しがたいもの、わからないものである「日常の謎」は、逆説的にわかりあうための梃子として機能し、それが解決されることを通して守屋とマーヤはお互いのことを少しずつわかっていく。日本のことをわかりたいと願うマーヤと、ユーゴスラヴィアについて知ろうとする守屋。日本とユーゴスラヴィアという異なる国に生まれた者同士が、確かにわかりあえるかもしれないという希望がそこにはある気がする。

 

 しかし、そんなほのかな希望がちらついてはいるけれども、究極的に我々が物語のなかで目の当たりにさせられるのは、どうしようもない隔絶だ。1991年、スロヴェニアクロアチアが独立、ユーゴからの離脱を宣言したことによって、状況は大きく変化する。揺れるユーゴスラヴィアに、それでもマーヤは帰らなければならない。

おれのような取り得のない高校生がなにか事件に関わる場合、時間か距離かどちらかがかけ離れているのが常だった。

 そんな普通の高校生だった守屋は、まさに時間的にも距離的にも目の前にいる人間が、大きな事件に関わるという現実と直面する。そのことが彼にユーゴスラヴィア行きを決意させるのだが、ユーゴスラヴィアに行きたいと告げる守屋を、マーヤは拒絶する。なにをするためにユーゴスラヴィアに行くのか、と問われた守屋は「なにか」としか答えられない。答えることができない。それが普通の高校生に過ぎない彼にとってのどうしようもない、変えようの現実。そしてその1年後、彼は太刀洗を通してマーヤの死を知らされる。

 自分の手の届かないところで、どうしようもなく物事は生起する。守屋とマーヤの運命を分けたのは、生まれた場所の違いでしかない。ただ生まれた場所が違うというだけで、残酷に運命は形づくられ、人の生は限界づけられる。それは紛れもない事実であるにも関わらず、いや、当たり前のことでありすぎるからか、意識にのぼることはほとんどない。

 そのことが、結局のところ、他者との間を決然と隔てる障壁となり、「わかりあう」限界を決定する。そのどうしようもない壁を、『さよなら妖精』は突き付けてくる。わかりあえなさを背負って、守屋路行は、わたしたちは生きねばならない。その事実がいくら残酷だとしても。

 

 この物語で、橋が要所要所に顔を出す。そしてマーヤとの別れは、「別世界の扉が閉じた」と表現されもする。このことから、社会学者ゲオルグジンメルの書いた「橋と扉」を想起せずにはいられない。

外界の事物の形象は、私たちには両義性を帯びて見える。つまり自然界では、すべてのものがたがいに結合しているとも、また分離しているとも見なしうるということだ。

  橋と扉を例にとり、結合と分離について考察したこの一篇は、こんな文章で締めくくられる。

そして、同じように人間は境界を知らない境界的存在だ。扉を閉ざして家に引きこもるということは、たしかに自然的存在のとぎれることのない一体性のなかから、ある部分を切り取ることを意味している。たしかに、扉によって形のない境界はひとつの形態となったが、しかし同時にこの境界は、扉の可動性が象徴しているもの、すなわちこの境界を超えて、いつでも好きなときに自由な世界へとはばたいていけるという可能性によってはじめて、その意味と尊厳を得るのだ

  橋と扉は、マーヤという異なる立場の他者との、隔絶の象徴であるかもしれない。しかしそれが扉である限り、それを超えて自由な世界へと旅立っていけるという希望も内包している。そんなことが示唆するように、『さよなら妖精』は他者に対する深い絶望と、それと同居するかすかな希望をも描いていると僕は思うわけです。

 

  そのことは、下の記事で扱ったことと結構リンクするんじゃないか、なんてこと思ったりしまして。

カタストロフと日常、あるいは希望を語るということ―『涼宮ハルヒの憂鬱』と東日本/阪神淡路大震災の連関についての雑感 - 宇宙、日本、練馬

 

 震災という経験の有無でひかれた境界を、越え出ていく、出ていける可能性。それを『さよなら妖精』は示唆してもいるんじゃなかろうかと思います。

 

追記

 その後こんな記事を書きました。

 

 絶望を越え、大刀洗万智は前へと進む。

 

 

氷菓』とのかかわりから

 この『さよなら妖精』は最初古典部シリーズのなかの一篇として構想されていた、ということを知り、ああ、それで登場人物の造形もどことなく面影があり、舞台も高山市がモデルっぽい感じなのねと合点がいったりしました。

 書かれなかった「古典部」シリーズの一篇として読むと、この他者との絶望的な障壁を未だ目の当たりにしてない折木君はなかなかどうして幸運なんじゃないか。この手の届かないところで、どうしようもなく始まって終わる出来事に絶望するような経験を、折木君はこれからするのだろうか。その挑戦に、折木はどう立ち向かうのか。それがあるとしたら、作中最大の謎である千反田さんがらみで書かれてほしい。

 そんなことが気になったりもしました。そんな経験なんてそうあるものでもないとも思うので、この線での続篇はないのかもしれませんが。『さよなら妖精』、新年早々いい本を読ませてもらったなと思います、はい。

関連

千反田えるという最大の「謎」―アニメ『氷菓』の魅力についての雑感 - 宇宙、日本、練馬

 

 

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