宇宙、日本、練馬

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ユダヤ教とキリスト教と現代―マックス・ウェーバー『古代ユダヤ教』に関するメモ

古代ユダヤ教 (上) (岩波文庫)

 

 1年かけて、マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』を読んでいてですね。文庫で3巻、累計1000頁超の大冊で、とても理解しきれたとは言い難いし、表層をなぞれたかすあやしいんですが。それでもとりあえず読了した今自分の頭の中に残っていることぐらいはメモとして残しておこうと思います。

 ウェーバー的にとらえたユダヤ教の特徴―儀礼的遮断

 この重厚長大な名著を訳した内田芳明さんは、『古代ユダヤ教』を「ヴェーバーの最高の傑作」とまで位置付けている。最高の傑作なのかどうか、ど素人にもほどがある僕には判断のしようもないわけですが、とにかく難解で読み進むのがしんどかった。縦横に引用される旧約聖書は、当然の常識として読者が知っているという前提で論が展開されるし、その時々で古代のユダヤ教バビロニアの宗教やらエジプトの死者礼拝、はてはインドのカースト制度など様々な観点から世界の諸宗教と比較していて、なかなか頭が追いつかない。ウェーバーの思い描く古代ユダヤ教の歴史的な位置を、僕が正確に理解しえたとは言い難い。

 それでも、付録として所収されているウェーバーの遺稿「パリサイびと」は、比較対象として明確にキリスト教を想定しているっぽいので、なんとなくわかるような気がするし、ウェーバーの考える近代化の在り方について示唆的だと僕は思うので、主にそこに書かれていることを中心にメモっておこうと思います。

 

 ウェーバ―が古代ユダヤ教の特徴として挙げていることはいっぱいある(小学生並みの要約)。都市の市民を担い手とする都市の宗教であること、儀礼によって生活の合理化を図っていたこと、予言者の独特の位置、祭司による魂のみとり、等々。その中でも最も重要だと僕が感じたのは、「儀礼的遮断」である。

 ユダヤ教徒はバビロン捕囚など度重なる受難を経て、民族の内と外の線引きを強く意識するようになった。その区別の中で、仲間内では忌み嫌われるようなことでも、その集団の外部の者に対して行うのは許されるという、対内・対外道徳の二元主義が発展したとウェーバーは指摘する。その代表例が利子をとること。ユダヤ人は同じユダヤ人から利子をとることは禁止されていたが、ユダヤ人以外のものからは利子をとることは許容されていたんだってさ。こうしたエートスに裏打ちされているのが、「パーリア(賎民)資本主義」であり、のちのプロテスタンティズムが発展させたような資本主義の行動様式とは一線を画するものであった。

 こうした内・外の区別は様々な場面で他の集団との接触をさまたげ、のちのパリサイ派においてもその特徴は堅持された。こうした社会的に孤立した状況を、まさに自ら選び取っていったのだと、ウェーバーは論じる。そのようにして、ユダヤ民族は「パーリア民族というかれらが自発的に選んだ状況」にとどまることになったのだと。ウェーバーは、ユダヤ教は外部に対して徹底的に閉じたものとして描きだした。

 

初期キリスト教との対比

 そうしたユダヤ教と対置すると、キリスト教は外部に対して開いている。ユダヤ教からわかれて現れたのにも関わらず、である。ウェーバーの論によると、むしろ初期キリスト教との葛藤の中でユダヤ教はより閉じた性質を持つようになった、という論の運びになっているきがするんですが。

 その初期キリスト教についてウェーバーは多くを語っていないけれども、その行きつく先としては間違いなく資本主義を生み出し世界を一変させたプロテスタンティズムがあることは間違いない。ユダヤ教=パーリア資本主義とキリスト教=われわれの資本主義という対比。前者はあくまで閉じられたものにとどまったが、後者は後に世界を覆い尽くすにいたった。

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む - 宇宙、日本、練馬

 

  この対比は、岩井克人ヴェニスの商人資本論』の分析と結構重なるような。重ならないような。

 

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

 

 

 とはいえ、プロテスタンティズムが生み出した資本主義が勝利した近代社会が、結局「鉄の檻」とまで言えるんじゃなかろうかという状況で、パーリア的な資本主義のありかたって見直されたりするんですかね。とりあえず疲れたのでこの辺で。また気が向いたら追記するかも。しないかも。

 

古代ユダヤ教 (中) (岩波文庫)

古代ユダヤ教 (中) (岩波文庫)

 

 

 

古代ユダヤ教 (下) (岩波文庫)

古代ユダヤ教 (下) (岩波文庫)