宇宙、日本、練馬

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今だからこそ、「戦後的なるもの」を問い直す―中野敏男『大塚久雄と丸山眞男 ―動員、主体、戦争責任』に関するメモ

 

大塚久雄と丸山眞男 ―動員、主体、戦争責任

 

 必要半分趣味半分で中野敏男『大塚久雄丸山眞男 ―動員、主体、戦争責任』を読みました。旧版は2001年に出版されているんですが、僕が読んだのは昨年新装版として出版されたもの。集団的自衛権の問題などに対して、「心ある多くの人々が「戦後」の原点とされる憲法九条や立憲制民主主義に立ち返って抵抗を語り始めている」*1今だからこそ読まれる価値のある論考であると感じたので、この新装版の出版は時宜を得ていると思いました。以下で雑な要約とまとめを。

 戦時と戦後の連続性―「自発性」と「自己同一的な主体」

 本書は、大塚久雄丸山眞男のテクスト分析を通して、総力戦体制下における動員の思想と、戦後の日本社会で大きな影響力をもった「戦後啓蒙」の思想との連続性を問う第1章・第2章、戦後啓蒙の思想を通じて現代まで生き続ける戦後思想を「ボランティア」を素材に論じる第3章からなる。

 1・2章で論じられることをざっくばらんに要約すれば、大塚・丸山に代表される「戦後啓蒙」の思想、その中核をなす「自由なる主体」の形成という理念が、総力戦体制下の動員において要請されたものの延長線上にある、ということである。大塚・丸山両人は、形は違えど戦中において個人の「自発性」を称揚し、そしてそれが戦後に「近代化を目指す」主体としての個人を確立しようとしたことと連続しているのだ、ということを具体的なテクストに即して論証する。

 検討の俎上にあげられるのは、大塚・丸山のいわば本職ともいえる分野のテクスト。具体的には、日本におけるマックス・ウェーバーの受容に際して大きな影響力を保持している大塚久雄であれば、そのウェーバー解釈が、政治思想史研究を「本店」と自ら位置付けた丸山眞男であれば、その政治思想史研究の中核をなす荻生徂徠福沢諭吉の解釈が、それぞれ分析される。具体的なテクストに即し、なおかつ両者の別の発言・記述や時代のコンテクストなどとも照らし合わせて、両者がいかに、総力戦体制下において、戦後においてその思想の中核をなした部分を形成していたのかを、説得的に論証する。「思想史研究は頭がよくないとできない」*2というのを身をもって実感させられる、そんな経験をしたような気がします。

 大塚久雄の分析は、主としてウェーバーに関するテクストの書き換えが焦点となり、議論の流れがつかみやすいという気がするんですが、丸山眞男の分析は、丸山のテクスト自身のもつ複層的な構造や、僕自身が荻生徂徠福沢諭吉、というか日本政治思想史全般に疎いということもあり、きちんと議論を追えていないかもという感じ。丸山の分析を行った2章は全体の頁数の約半数を占めていて、「包括的な書き下ろしの著書の不在」ゆえに「自己言及的な不壊の構造」をもつと著者自身が評する、多層的な丸山の思想を追うことの困難さが伝わってくるという気も。

 

 そうした具体的なテクスト分析を再構成するのはあれなので詳しくは本文を参照してもらうこととして、大塚・丸山のテクストを分析して到達するのは、戦中と戦後のはっきりとした連続性。大塚が想定した戦後復興を担う主体の創出は、戦中における「最高度自発性」をもって「全体に奉仕する主体」する思想の延長上にあり、また丸山の思想は、本人が「暗い戦中」と「明るい戦後」の断絶をしきりに強調しているにも関わらず、「個人主義全体主義に抵抗するという思想的営みそのものを通して、そうした体制への動員を積極的に主張するものとなっている」*3

 そして彼らの、特に丸山の思想のもつ戦中からの思想的連続性は、戦後も根強く蔓延ることになった帝国主義植民地主義を捉えられておらず、「単一民族」としての国民主義に帰着することとなった。本文から戦後思想の到達点と限界を示す文章を抜き出すならば、「「主体性」の確立を第一に求める丸山の思想が、総力戦体制のもとでは下からの国民総動員の思想に、そして、敗戦後の状況のもとでは帝国主義国民主義という記憶を抹消して「単一民族」的国民主義へとこぞって向かう思想に、それぞれ確実に寄与した」*4

 

「最高度自発性」とボランティア、アイデンティティ

 そうした戦後思想のもつ問題性が、今なお生き続けていることを示すのが、「第3章 ボランティアとアイデンティティ」である。第三章のもとになった論文が『現代思想』上に発表されたのは、1999年5月。阪神淡路大震災の記憶が生々しかったであろう時期に書かれたこの文章では、そうした災害からの復興の過程で大きく注目されたボランティアという営みのもつ問題が検討される。大災害から4年の歳月を経ているという意味では、東日本大震災を経た2015年現在、この論考の持つ意味は偶然にも発表されたときと同様、いやそれ以上の重みをもっているといえるかもしれない。

 ボランティアにかかわる語りは、「自発性」をいたずらに称揚するかのような傾向をもつ。それに対して著者は、「自発的なボランティアは、それの社会的機能から考えればむしろ無自覚なシステム動員への参加になりかねないのだし、ボランティアの自発性をただ称揚する市民社会論は、その点を塗りつぶすことによって、進行するシステム動員の重大な隠蔽に寄与しかねない」*5として批判を投げかける。

 そして、「現状とは別様なあり方を求めて行動しようとする諸個人を、抑制するのではなく、むしろそれを「自発性」として承認した上で、その行動の方向を現状の社会システムに適合的なように水路づける」(本文278頁。)ような社会の在り方がたちあらわれているのではないかと問題を提起する。こうした在り方こそ、ある意味では戦後啓蒙思想の到達点ともいえるのであり、その戦中との連続性を鑑みるならば、戦時動員とも高い親和性をもつものであることは、繰り返すまでもないだろう。

 「ボランティア」という活動が様々なメディアで報道されたり、語られたりする際には、肯定的なイメージで語られることが常である、といっても言い過ぎではないだろう。この論考から15年の時を経てなお、「自発性」はポジティブに語られ、それを支える「自己同一的な主体」は疑われもせず理想としてあり続けているように思われる。そのような時代状況の中で、シャンタル・ムフに依拠しつつ「アイデンティティ」や「自己同一的な主体」からの抜け出しかたとして、多元的な主体位置を含む「個人化のポテンシャル」(アルベルト・メルッチ)の訴える本書の結論は、皮肉にも、古さを失っていない。

 

 冒頭でも引用したように、「心ある多くの人々が「戦後」の原点とされる憲法九条や立憲制民主主義に立ち返って抵抗を語り始めている」今だからこそ、戦後的なるものは問い直され、鍛えなおされなければいけない。それは丸山眞男に単純に追従することではなく、その歴史的な位置価、限界性を見極めたうえで、可能性をすくい取ることでなければならない。だからこそ本書は今こそ読まれるべきじゃないかなー、なんて思ったりしたのでした。

 

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*1:「新装版によせて」340頁。

*2:Twitter上でいただいた、むしざわ@mushizawaさんのお言葉から。

*3:本文173頁。

*4:本文246頁。

*5:本文260頁。