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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

「こども」と「おとな」と「学校」と― 『花とアリス殺人事件』感想

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 『花とアリス殺人事件』をみました。岩井俊二監督の作品って恥ずかしながらぜんぜん観たことがなかったんですが、とてもよかった。作品の物語自体は瑣末な勘違いでドタバタする、ぐらいの感じだと思うんですよ、正直。しかし見終えたときに奇妙に心地よい感覚が残って、その感覚がこの映画のすべてであって、語ったりするのは野暮なんじゃないかとも思うんですが、一応感想を。

 実写とアニメとの架橋―『花とアリス』との確かな連続性

 岩井俊二監督作品は観たことがなかったと上に書いたんですが、流石に直接関連する作品くらいは予習しておこうと思って、gyaoで無料配信されていた『花とアリス』は観てから「殺人事件」に臨みました。結果的にそうしといて本当によかった。実写とアニメという表現方法の違いにも関わらず、『花とアリス殺人事件』と『花とアリス』の纏う雰囲気はほとんど同じだった。これにえらいびっくりし、感動しました。

 その要因はいろいろあると思うんですが、第一にはやっぱり作品の中核をなす二人の描写にあるのではと思います。

 アニメという表現方法だからこそ、10年の時を経ても、蒼井優演じるアリス・鈴木杏演じる花はそれぞれアリスと花そのままでスクリーンの上に現れることができるわけで、その意味では、表現方法を変えることが、奇妙なことに雰囲気を変えないためのたった一つの冴えたやり方だったのかも。アリスと花の二人のやりとりは、それが事後的に構成されたことはわかりきってはいても、確かに『花とアリス』より前に彼女たちの間でありえたことがまったく違和感なく受け入れられるほど自然だったように思います。

 それと背景美術もすんばらしかった。パンフをみたら、『言の葉の庭』の美術に携わった滝口比呂志さんが美術監督を務めているそうで。確かに鎌倉・小町通りのシーンとか、随所に『言の葉の庭』っぽい雰囲気が漂っていた気がします。そういう写実的な美術も、本作を実写映画の連続線上に感じた一因かもと思ったり。

 それと物語自体も、結構『花とアリス』のセルフパロディ感に溢れていたような。アリスが父と会うシーンなんかは完全にデジャブという感じだし(『殺人事件』のほうがテンポがスピーディーだった気もしますが)、「些細な勘違いが多くの人を巻き込んだり巻き込まなかったりしつつなんとか落ち着くべき所に到達する」みたいな大きなフレーム自体は共通しているような気もして。というか花とアリスのコンビの』魅力が遺憾なく発揮されている以上、物語ってそんなに意味はもたないかもしんないですね。

 

「こども」の論理と「学校」の論理

 そういうことで『花とアリス殺人事件』はとっても良かったんですが、『花とアリス』と対比すると、『殺人事件』は徹底して「こども」の論理が透徹する空間があったように思いました。花とアリスの二人は、二作品を通して実体としては「こども」であり続けている。しかし、『花とアリス』は、ふたりが高校入学を一つの契機として、「おとな」の世界に片足を突っ込んだり突っ込まなかったりするお話だったと思うわけです。

 花が一目ぼれした宮本雅志を落とすため陰謀をめぐらしたり巡らさなかったりする様は背伸びして「おとな」になろうとしている感じがあるし、アリスはモデルの事務所に所属することで否応なしに「おとな」の世界に巻き込まれていく。『花とアリス』でおそらく最も美しく印象的な、アリスがオーディションでバレエを披露するあのシークエンスも、おそらくアリスの心情としては「こども」的な一生懸命さからでたものであるにも関わらず、直後下世話な「おとな」の論理(パンチラに釣られる中年男性!)の醜さに回収されてしまう。「こども」と「おとな」のはざまにある高校生という立場の葛藤こそ、『花とアリス』で描かれていたものなんじゃなかろうか、という気がする。

 一転、『花とアリス殺人事件』はそういう「おとな」の論理がそれほど介在していないように思える。背伸びして「おとな」の論理で家計を心配し、バレエ教室に通うことを躊躇するアリスは、むしろ母の「こども」っぽい理屈(金は天下の回りもの!)に押し切られるシーンはそれを端的に表しているんじゃなかろうか。黒澤明監督の『生きる』オマージュ満載のシーンで、アリスとほんのひとときだけ心を通わす湯田父(偽)も、喫茶店のシーンで自分の腕を「赤ちゃんみたいだろ?」と見せたりする。このシーンの意味って、物語に完全な「大人」の出る幕がないことを示しているんじゃないか。『殺人事件』では「おとな」の論理が後景に退いているように僕には思われた。

 しかし「おとな」の論理が後退しても、「こども」の論理が自由を謳歌できるわけではない。『花とアリス殺人事件』で「こども」の論理と対抗するるのは、多分「学校」の論理という気がする。『花とアリス』では学校空間は学園祭というある種の非日常の場をのぞいては、それほど舞台として機能してはいなかった。一方、『殺人事件』では学校の描かれる場面がより多い印象を受ける。「史上最強のひきこもり」・「史上最強の転校生」というのが、ポスターに載っている花とアリス二人のキャッチコピー。そのどちらも、「正常な」学校空間の外部に存在するものという点では共通している。その象徴はやはりふたりの服装ではなかろうか。二人とも、学校指定のセーラー服では行動しない/できない。アリスのそれはあくまで偶然制服の在庫がなかったことによるものではあるが、あの「学校」における異質性のアイコンとして機能してしまっている。

 そのふたりが、学校空間から離れた場で、「こども」の論理でもって事件を解決し、その論理が十全には働かない「学校」という場に戻っていく。二人だからこそ、「似合わねー」制服に袖を通しても笑っていられるし、戻っていける。『花とアリス』だと二人の「似合わねー」は、高校という「おとな」と「こども」の汽水域に、ふたりがふさわしくないことを示してたと思うんですが、『殺人事件』ではおそらくまた違った意味合いなんじゃないかな、なんて。「似合わねー」場所でも、二人だから戦える。『殺人事件』はそんな話だったんじゃねーかと僕は思いました。

 

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【作品情報】

‣2015年/日本

‣監督:岩井俊二

‣脚本:岩井俊二

‣出演

 

花とアリス殺人事件

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