折木奉太郎と千反田えるの未来について―『氷菓』についての論点整理 - 宇宙、日本、練馬
上の記事、なんだかよくわからないのですが意外なほど反響がありました。だからというわけではないのですが、『氷菓』についてだらだら考えていました。とりあえず今考えていることを書き留めておこうと思います。
救われない無数のなにか
アニメ『氷菓』には、語られない無数の物事がある。「氷菓」編では千反田の伯父関谷純の行方は結局のところわからないわけだし、「愚者のエンドロール」編では、本郷真由の陥った袋小路のことを、クラスメイト達は知る由もない。「クドリャフカの順番」編はそれが一番顕著で、陸山の真意は結局のところわからず、安城春菜の『クドリャフカの順番』は、幻の名作のままにとどまる。たとえ知りたくても知りようもないことが、物語の中にちりばめられている。
そんなことを上の記事で書いて、「それでも知りたい」と思う意思が、彼らの人生を駆動させるのだ、みたいなことを書いた。
彼らの人生、というとなんだか大仰な感じがするけれども、物語自体も、「知りたい」という意思によって駆動していると思う。『氷菓』は、誰かがなにかを知りたいと願う物語だ、と要約できるかもしれない。救われない無数のものがあるなかで、それでもそれをすくいとりたいと思う、その千反田えるの、時には折木奉太郎の意志が、すべてではないにせよ、いずれ「時効」になって忘れ去られ、「過去」になってしまったであろう何かを救い出す。それがアニメ『氷菓』に通底するモチーフで、「氷菓」編においてそれがもっともシンプルな形で表われている、ような気がします。
かき消えた関谷純の叫び
青春時代に神山高校を去り、そしてインドで消息を絶った千反田の伯父、関谷純。彼が幼いころの千反田に投げかけた一言と、それに大きく関わるであろう古典部の文集『氷菓』の由来が、「氷菓」編において古典部の面々が解くべき謎。
関谷純が高校を去らねばならなくなった理由は、関谷の直接の後輩である教師、糸魚川養子によってまあ確実だろうという事実確認がなされるわけだが、それは『氷菓』の由来の核心を明らかにはしない。
える「先生、叔父がなぜ古典部の文集を氷菓と名づけたのか、先生はご存知ですか?」
糸魚川「いいえ。その名前は、退学を予感した関谷さんが珍しく無理を通して決めた名前なのよ。自分にはこれくらいしか出来ないっていってね。でもごめんなさいね。意味はよくわからないの」
糸魚川が「本当に」意味はよくわからないのか、苦い記憶ゆえに言いたくはないのか、はたまた青春の色あせた記憶として忘れてしまったのか、「本当には」わからない。登場人物が「本当に」何を考えていたのかなんて心理を考察するのは不毛だ。それはそれとして、糸魚川が「意味はよくわからない」と述べたことは、関谷純の悲劇をますます救いようのないものにする。関谷純の叫びはこんなにも近くにいた後輩にすら、「本当には」届いていなかったのだ。いや、「本当は」、その時は届いていたのかもしれないし、そうであってほしいとも思うが、そんなことはひとまずおいて。
”I scream”。
「そうです、強くなれといったんです。もし私が弱かったら、悲鳴も、そう、悲鳴も上げられなくなる日が来るって。そうなったら私は生きたまま……」
「わたしは生きたまま死ぬのが怖くて泣いたんです」
折木の一瞬のひらめきが、幸運にも千反田の記憶を呼び戻し、かき消えたはずだった関谷純の叫びを救い出した。
それがたまたま、千反田の記憶に強く残っていて、なおかつ、たまたま折木というある種の才能をもつ人間がその場に居合わせ、なおかつ、糸魚川という当時を知る人間がいて……と無数の偶然の重なりの結果として、関谷の叫びは救われたのであり、無数の救われなかったことを背負う関谷純という人間の人生からしたら、ほんの些細なことなのかもしれない。しかし、関谷純の叫びは時を超え、それを受け取るべき人間、千反田えるまで届いた。
こうしたかき消えた/かき消えるかもしれない無数の叫びが、『氷菓』には満ち満ちている。それをほんの少しでもすくい取ろうとすること、すくい取りたいと願うことが、「優しさの理由が知りたい」ということなんじゃないのかなーと。
「連峰は晴れているか」における小木とヘリコプターをめぐる折木の記憶も、かき消えたかもしれない記憶のひとつという意味で、千反田の伯父の挿話と機能的に等価である、ともいえるかもしれない。千反田が伯父のことを知りたいと願ったように、折木が小木のことを知らねばならない、と思った時点で、二人の道は決まっているのかも、とも。
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折木奉太郎が知りたいと願うようになったのは、「優しさの理由」なんだよ!みたいな。
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