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200年前を生きた人々の視た世界―『百日紅 〜Miss HOKUSAI〜』感想

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 『百日紅 〜Miss HOKUSAI〜』をテアトル新宿にて、初日舞台挨拶の回をみました。よかったです。原恵一監督の映画をみるのは、『カラフル』以来。というか『カラフル』って5年も前なんですね。それはさておき適当に感想を。ネタバレが含まれます

 かつてあったかもしれない日常

 百日紅 〜Miss HOKUSAI〜』は、一つの大きな事件を描くというよりは、葛飾北斎とその娘、お栄を中心とした人々の間でおこる日常のよしなしごとを、飄々としたトーンで描写していく作品、という印象。江戸時代に生きた絵師たちの日常もの、みたいな要約が一番適切だと僕は思います。

 登場人物を揺さぶる大きな出来事も起こるわけですが、それも日常にまま出会うであろう出来事の一つ、という以上の意味付けは多分ない。その出来事が投げかける波紋は大きいが、所詮波紋でしかなく、日常という大海のなかに自然に消え去っていく。だから鑑賞後の感情も結構落ち着いていて、原監督のフィルモグラフィからすると何だか意外な感じもしました。正直。過剰にエモーショナルな雰囲気がなく、それがなんだか心地よかったです。メインの声優陣も本職じゃないのに上手い。全く違和感はなかったです。

 

絵師たちの、江戸の人々の視る世界

 絵師たちの日常ものとはいっても、本作では「描くこと」そのものはそれほど前景化しない。それに取って代わるのが、「視ること」。絵師たちはそれぞれに固有の感性でもって世界に意味付けし、それをまさにあるものとして「視ること」ができる。描かれる画は、絵師の「視ること」の力に直結する。

 雲の中で鳴る風の音は、龍そのものとして視えるからこそ描くことができるのだし、画の実力は及ばなくても、女性の色気を視てきた池田善次郎はそれをお栄を凌ぐ実在感で描くことができる。

 この視ることにかけて圧倒的な才覚をもつものとして描かれるのが、葛飾北斎その人。お栄との圧倒的な実力の差は、地獄絵図をめぐるエピソードで描かれるが、より決定的なのが、病に冒されたお栄の妹、お猶への態度。

 お栄は、父であるにも関わらずお猶に会うことを恐れる北斎を事あるごとに詰る。「弱虫」「泣き虫」だから、会わないのだとお栄は言う。それは的を射てはいるのだが、おそらくお栄は北斎の恐怖を理解しきってはいない。北斎がお猶と会うのをことさらに恐れるのは、彼が「視えすぎる」からだ。実際、一度だけ描かれるお猶を見舞ったシーンは、確実に誰にも視えなかったもの、彼女に忍び寄る死の予感をはっきり視てしまう。そして彼女の死の瞬間には、自分のところにきた彼女を確かに見つけるのである。それでも北斎は誰よりも「視ること」に貪欲な男であり、だからこそ90まで生きてなお、10年、5年先を視たいと願った。

 そして彼の娘お栄は、悲しいかな北斎ほどの「視る」力はなかったんじゃないか。彼女が好んで視る火事場は、火事場以上のものではなかった。お猶の死を予感させた蟷螂にしてもそう。それが北斎とお栄との懸隔を露わにしているように思う。

 

 そして現代に生きる我々からしたら、特異ともいえるものを視ることができるのは、絵師たちだけではない。お栄の描いた地獄絵図によって、世の中を視ることの意味が読みかえられ、それによって地獄の世界が現前する。北斎とお栄もまた、吉原から出られない花魁の魂を看取る。

 江戸に生きる人々は、我々とは違うものが視えていたのかもしれない。世の中はますます便利になっていくけれど、それはだんだん何かが視えなくなることと表裏一体なのかも、みたいなことを言うと陳腐な文明批評みたいだけど。200年前、我々とは違う世界を視ていたかもしれない人々の物語を丁寧に描いたのが、『百日紅 〜Miss HOKUSAI〜』だと僕は思いました。面白かったです。

 

 

 

 

百日紅 (上) (ちくま文庫)

百日紅 (上) (ちくま文庫)

 

 

【作品情報】

‣2015年/日本

‣監督:原恵一

‣原作:杉浦日向子

‣脚本: 丸尾みほ

‣出演