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「本物」になれない苦悶―『マイ・バック・ページ』感想

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 Huluで『マイ・バック・ページ』をみました。原作の川本三郎の街歩き本を数冊ぱらぱら読んだり、全共闘関係の本を読んだりしたのがきっかけだったんですが、面白かったです。以下で簡単に感想を。

 学生運動に乗り遅れたやつら

 1969年、安田講堂の陥落を外から眺めていた青年、沢田は、出版社の記者としてドヤやら労務者のなかに入って取材をしたりなんだりしていた。やがて彼は、新左翼運動に関係をもっていくなかで、武装蜂起を目論むと語る男、梅山と出会う。沢田は梅山と接する中で彼にシンパシーを覚えるようになり、やがては強く肩入れしていくことになる。梅山が武装蜂起など行う組織力など持っていないことにも気付かずに...。

 二人がひと時心を通わし、やがてすべてが泡と消える物語は、ある意味喜劇のようでもあり、悲劇のようでもある。新左翼運動を立ち上げる梅山=片桐は、その出発からしてすでに頼りなさげで、成し遂げたいことがあるようには思われない。活動自体もまるでままごとだ。それは偶然にも彼が学生運動華やかりし頃からちょっと遅れて大学に入ってきたことによる喜劇だ。

 全共闘の時代を大学生として生きた一人である小阪修平は、著書『思想としての全共闘世代』のなかで自身の経験から、大学に入ってきた時期によって運動の印象もだいぶ異なるだろう、と述べているが、安田講堂をメディアを通して見たという梅山は悲しくも完全に乗り遅れた世代に属するんじゃなかろうか。

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

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  その彼の「ままごと」がやがて過激化し、世間からしたら「ままごと」では済まされなくなっていく過程は、もはや消えようとしていく理想をそれでも掴もうとしたがゆえの、時代の空気を全く読めなかったが故の悲劇。

 そうした時代錯誤の革命家気取りに、沢田はなぜ共感するのか。それは彼もまた運動に乗り遅れてしまったやつらの一人だからじゃないか。世代的には直撃世代かもしれないが、安田講堂を外から見ていた、その中には入れなかったという経験が、彼を強く呪縛する。

 その後の彼の人生は、まさしく「外から見る」ことしかできないような体験に彩られる。取材で労務者の中に入っていったところで、彼は記者として戻るところがあるから、ほんとうには労務者と対等な関係にはなれない。そこから、「本物」になれない男たちの苦悶が浮かび上がる。

 

「本物」になれない人のための歌

 沢田は「本物」の労務者になれないだけでなく、「本物」の記者にもなれない。それはあくまで新聞の「あまりの紙で刷っている」と蔑まれる雑誌記者でしかなく、「本物」として優位に置かれる新聞記者ではない、という意味で。

 彼もまた、梅山と同じように「本物」になろうともがく。梅山に政治的にコミットすることでそれを果たそうとした彼の望みはしかし、梅山がいとも簡単に政治的な信念を捨て去り、保身に走ったことで流産することになる。有罪判決を受けた彼は、もはや本物偽物以前に、記者ですらなくなってしまう。

 そして、ラスト、70年代の終わりに沢田がドヤ街で世話になった兄貴分と再会する場面でも、「本物」になれない悲劇が彼を襲う。記者という身分を偽って労務者のなかに分け入った彼は、ほんとうの意味では兄貴分と過去を共有出来はしない。ここでも彼は、偽物としてふるまうしかない。それをかみしめる沢田の表情に、とにかく、心を揺さぶられる。

 この本物になれないという宿痾はなにも沢田一人が背負うものでもなく、ましてや梅山だけでもない、熱い夢の時代の後に生まれたすべての人間が背負うものなんじゃなかろうか。それが「虚構の時代」の悲劇といったら言い過ぎだろうか。

 

 はい、こんなことを思いました。見田宗介の影響がばりばりに感じられる文章を書いてしまった感。とにかく、面白かったです。

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 熱い夢の時代とか虚構の時代云々は全部これの受け売りです。

amberfeb.hatenablog.com

 

 

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【作品情報】

‣2011年/日本

‣監督:山下敦弘

‣脚本:向井康介

‣原作:川本三郎

‣出演