先日ふと図書館で手にとって借りたレム・コールハース/ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著『プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…』がとても面白くてですね、数日かけて読了しました。いやこれほんと凄い本だなあと。以下で感想を適当に書いておこうと思います。
メタボリズムとは?
『プロジェクト・ジャパン』は、黒川紀章などが中心となって戦後日本で生じた前衛建築運動、メタボリズムの軌跡をたどった本。メタボリズムがどんな運動だったかは僕が説明するより以下のリンクをご覧いただいたほうがよいと思うのでリンクをはっときます。特に森美術館の企画展にあわせて作られたと思しき下のサイト、すごいわかりやすくてすごくよいです。
一分でわかるメタボリズム | メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン | 森美術館
メタボリズムを象徴的にあらわす代表的なものといったら、それが一つの頂点に達したと大阪万博の会場なんじゃなかろうかと思われます。
代謝(metabolism)の名に象徴されるように、高度成長期に変化・発展する社会にあわせて都市もまた変容し進歩していくような都市構想。そんな気宇壮大なプロジェクトを、メタボリストたちは志向し続けたわけです。
建築を変えた最後の前衛運動、メタボリズムの歴史を、ほとんど教科書的に再構築するのが『プロジェクト・ジャパン』である。*1
著者のひとり、レム・コールハースはイントロダクションでこう語るが、「教科書的」とは謙遜もいいところだ。建築物の写真はもちろん、設計図やら当時の新聞・雑誌記事など図版は極めて豊富。大版700頁超というボリュームのなかに、隙間なく情報が埋め込まれている。メタボリズムの「すべて」が本書のなかにある、といっても言い過ぎではないんじゃないか、と思える。
大雑把に分けると、運動の進展を語るセクションのあいだに、メタボリズムに関わった当事者たちのインタビューが差し挟まれるような構成になっている。インタビューから出版までに、菊竹清訓、黒川紀章両氏は亡くなっていて、その意味で、本書はメタボリズムの最期の姿をとらえているんじゃなかろうか。
タブラ・ラサを求めて―満州・焦土・砂漠
メタボリズムのはじまりは、1960年、世界デザイン会議にさしあたってはおける、というのが著者たちの判断だろうと思う。そこで勝手に配布された小冊子『メタボリズム 1960』が、ひとつのマニフェストとなり、以後メタボリズムという前衛運動が展開されていくことになる。
しかし、それに至る前史があることに、著者たちは目配りを忘れない。彼らが最初にインタビューした磯崎新は、メタボリズムの「外」にいた人間であるが、戦後という時代をこう位置付ける。
基本的に戦前と戦後の状況はまったく何も変わっていない、というのが結論でした。開戦の10年前から終戦の10年後までの20年間、あらゆることが連続していた。イデオロギー上の断絶とは表相上のことだったんです。*2
この磯崎の感覚は、著者たちの歴史観に大きな影響を与えたと思われる。ゆえにメタボリズムは「戦後復興」の華々しいエピソードとして、というよりは明確に戦前との連続性をもったものとして捉えられることになる。
ある時、ある国が戦争を始めたが、大陸を征服したと思いきや、内地の国土が二発の原子爆弾によって破壊された……
戦勝国は敗戦国に民主主義を強要する。
だが、未来像を描く師に導かれた建築家・アーティスト・デザイナーの卵たちのグループにとって、国家の危機は重くのしかかるどころか、新しい都市像を掻き立てるものだった……
それぞれの性格はかなり違うものの、彼ら建築家たちは夢の実現に向けて力を合わせた。
創造的なスーパー官僚と行動的な国家からの堅固な支援を受けて……
孵化から15年後、彼らは新しい建築で世界を驚かせた─メタボリズム─国土全体を根本的につくり直す提案である……
やがて新聞、雑誌、テレビが、建築家たちをヒーローに仕立て上げる。知性派と行動派と。どちらにせよ完璧な現代人だ……
勤勉さと折り目正しさ、そしてあらゆる類いの創造性が一体となり、彼らの国・日本は、世界的にまばゆいばかりの範例となった……
オイルショックが西欧の終焉の口火を切ったとき、日本の建築家たちは世界各地に活動の場を広げ、ポスト西欧の美学を確立しはじめる……
引用した文章は裏表紙に書かれている本書の紹介なわけですが、ここに著者たちの問題関心が色濃く表れているような気がする。
大日本帝国の領土的野心。満州という広大な土地は、軍国主義的な指導者層にだけでなく、建築家*3にとってもこのうえなく魅力的な土地だった。本書の68-9頁に見開きのスペースでもって提示される、満州の荒野の写真。見渡す限りなにもない、広大な土地に、建築家たちは「タブラ・ラサ」*4をみる。
彼らが満州の荒野に抱いた野心は、関東大震災後、帝都の大幅な刷新を目論んだ後藤新平が果そうとして果たせなかった都市計画とも連続性があることを指摘することを、著者たちは怠らない。
そうした建築家たちが満州に抱いた野望は、大日本帝国の敗北をもって頓挫する。しかし、彼らの前には新たな「タブラ・ラサ」が現出する。それは、戦争によってt焦土と化した、日本の国土である。丹下健三をはじめ、少なくないメタボリストたちが原子爆弾で破壊しつくされた広島の姿に、強く心を撃たれたことを告白している。
焼けこげたコンクリートの建物が点在するだけの焦土と化した国土の姿をみて、私たちはちょうど白い紙の上に新しい都市を描くような夢と期待をもっていたのです。*5
かくしてメタボリズムの生じる舞台は、日本国内で準備されたわけだ*6。
しかし70年の大阪万博を最後に、メタボリズムは退潮する。1973年のオイルショックで、日本経済は失速し、そしてメタボリズムの背後で強力なバックアップの役目を果たした政府の影響力も弱まったことで、もはやかつてのようにメタボリストたちが活躍する余地は、国内には残っていないように思われた。
そこでメタボリストたちは、中東諸国へとその活躍の場を移すことになる。新たな「タブラ・ラサ」を、中東の砂漠に求めたのである。中東やシンガポールでは、強力な政府の力もあって、メタボリズムは強い影響を残すことに成功する。
そして2011年、東日本大震災。奇しくも本書が出版される直前に生じた未曽有の災害は、建築家の役割を再び問うているのかもしれない、とするエッセイによって本書は閉じられる。
私が自分のアトリエをスタートした1971年以降、メタボリスト達のような都市への提案はほとんど影をひそめてしまった。内向と抽象の時代はいまだに続いているのだ。メタボリズムの時代と状況は全く異なるが、いまは建築家が社会との良好な関係を取り戻すまたとない機会ではないかと思われる。*7
このように、本書はメタボリズムの歴史を語る試みであると同時に、「タブラ・ラサ」を求め続けた建築家たちの旅の物語でもある。本書の膨大な情報は、そこから様々な物語を摘出することが可能だろうと思う。それは戦後復興の物語でもありえるし、建築史上のパラダイムが変換する瞬間の素描であるかもしれない。なにが言いたいかというと、他の人の感想がききたいなあ、ということです。はい。
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