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幸福という免罪符―秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』感想

イリヤの空、UFOの夏〈その1〉 (電撃文庫)

 

 6月24日は全世界的にUFOの日なんですって。そういうわけで『イリヤの空、UFOの夏』を読みました。Twitter上で言及されている方も少なくなく、背中を押していただいて有難かったです。以下で簡単に感想を。

 あの夏へ

 米軍と自衛軍の基地がある地方都市、園原市。夏休み最後の日に中学校のプールに忍び込んだ浅羽直之は、謎の美少女、伊里野加奈と出会う。浅羽と伊里野のひと夏の交感が、学校と戦争という舞台装置で語られる。

 夏。学園祭。友情。初恋。別離。青春がこれでもかと詰め込まれていて、死ぬかと思いました。青春過剰摂取。もう中学生じゃないのに、そしてこんな輝いた青春なんて経験したこともないし、はっきり言ってしまえば存在しないとすら言い切れるのに。

 にもかかわらず、なぜこんなにも没入できたのか。それはやっぱり、この物語は浅羽と伊里野の物語であると同時に、彼らを「視る」ものたちの物語でもあるからじゃないか*1。浅羽と伊里野は、「世界の命運を握っている」がゆえに、常に誰かの視線に晒されている。

 それは時に新聞部部長の水前寺や浅羽夕子だったりするが、大体の場合において自衛軍、とりわけ榎本、椎名真由美のものだ。伊里野の気を引こうとするする浅羽のつたない、けれども必死なアプローチは常に視線にさらされ、ゆえに浅羽に対する感情移入はどこかのタイミングでずらされ、完全に感情移入しきることはない*2

 彼らの青春を特権的に「視る」目線。その視線を読者であるわれわれも意識せざるを得ない。「青春の物語」であると同時に「青春を視る物語」が織り込まれているがゆえに、すでに青春を終えた人間でも、物語に没入することができるんじゃないか。

 

絶望の生か、幸福な死か

 物語が進むにつれて、戦争は日常をはっきりとむしばみだし、それに伴って伊里野の生命は極めて危うい状況に陥る。彼女を助けるため、浅羽は彼女とともに絶望的な逃避行へと踏み出す。明日なき逃走の果てに浅羽がみたのは、彼女を幸福にすることで、しかし死地へと送り出してしまうという途轍もなく残酷な幕切れだった。

 そして浅羽と伊里野の交感は、そのために仕組まれたものだったと種明かしされる。結局浅羽は監視の目線から逃れきることはできず、その中で足掻いていた滑稽な子犬にすぎなかった。伊里野は死んで夏が終わり、そしてその犠牲の上に取り戻された日常はその死を忘却の彼方へと運んでゆくのだろう。浅羽が彼女にささやかな手向けを送り、そして彼女の名残もまた彼のもとを去り、物語は幕を閉じる。

 僕の手元にある文庫本には帯がついていて、白々しくも「感動の完結……!」と銘打たれている。感動の完結。少女は死に、少年は無力を知り、そして強固な日常が取り戻される。

 それは本当に感動なのか?という問いが強く頭に浮かぶ。言い換えれば、「薄幸の少女が、しかし最後には幸福に死ぬこと」に心動かされたとして、それを「感動」と呼んでいいのか?そんなことを思った。

 伊里野加奈の生は、二つの方向に引き裂かれている。それは彼女の生を望む浅羽と、彼女の死、それと引き換えの世界の救済を望む榎本と。だがこの物語を「楽しんでしまった」僕の立ち位置は、彼らのどちらでもない。僕の立ち位置をあえて登場人物の中に位置づけるなら、椎名真由美のそれが最も適当だろうと思う。伊里野のことを気遣い、しかし立場上気遣う以上のことはできない。彼女を救いたくとも、職務上の立場がそれを許さない。それが彼女をじりじりと消耗させる。

 職務上のそれと、読み手のそれとでまったく意味づけは異なるけれども、「気遣いはできる、手出しはできない」という一点において、僕は、というか読者は椎名真由美と同じ場所に留め置かれるのだ。そんな彼女が最後に語る言葉は、読者にとっての救済の言葉、つまりこの物語をハッピーエンドと解釈させうる力をもった言葉なんじゃないかと思う。

もちろん、すべては伊里野を最後の決戦に出撃させるためでした。それを否定するつもりは毛頭ありません。しかし、だからといって、ブラックマンタのパイロットとして生きてきた伊里野加奈が最後の最後でその目で見、その耳で聞き、その肌で感じたものが、それを与えた側の動機の罪深さによってニセモノになるとはどうしても思えないのです。*3

  その通りだ、とは思う。伊里野加奈は最期の瞬間、たしかに幸福だったのだと。それは、「与えた側の動機の罪深さ」とは関係がない。しかし、ニセモノではないことによって、彼女の人生を操作しある方向へと捻じ曲げた罪責は、逃れられるわけじゃないと僕はやっぱり思ってしまう。椎名の物言いは、言い方は悪いが、幸福を免罪符にしているように受け取れてしまうような気が僕はするのだ。

 だから僕は『イリヤの空、UFOの夏』は、悲劇を「視る」こと、つまりは楽しむことの酷薄さを突き付けられる物語だ、と思う。椎名真由美の無力さは現実に生きる人間の無力さと重なるような気がするんだけど、それってホントにいいんかい的な。

 

 出版から15年近くたち、もはやハッピーエンドかバッドエンドかみたいな話題は飽きるほど繰り返されたんだろうけど、あえてそれらを読まずに適当に書き散らかしました。とりあえずこんなところで。

 

 

イリヤの空、UFOの夏〈その4〉 (電撃文庫)
 

 

 

イリヤの空、UFOの夏〈その3〉 (電撃文庫)
 

 

 

 

*1:この発想はtwitter上で真塚なつき@truetombさんの呟きに示唆を大きな示唆を受けています。

*2:それは僕がもはや浅羽と同じ中学生ではないから、という可能性はおおいにありうるし、多分そうなんだろう。

*3:4巻、p.318。