宇宙、日本、練馬

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暗喩としての校舎――『リンダ リンダ リンダ』、『ここさけ』、「ライブアライブ」における日常性

心が叫びだす?あなたの名前呼ぶよ

 

青春とは支離滅裂さである―『心が叫びたがってるんだ。』感想 - 宇宙、日本、練馬

 先日『心が叫びたがってるんだ。』をみて以来、ずっと心が叫びたがっている状態なので取るもの手につかずって感じです。はい。劇場でみてからなんとなく『リンダ リンダ リンダ』のことが頭から離れないので、その共通する演出とその意味みたいなことへの考察めいたものを書き留めておこうと思います。

 雨の中に佇むそれ

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  『リンダ リンダ リンダ』は2005年公開の日本映画。文化祭を前にしてメンバーのごたごたでボーカル不在の状況になってしまったガールズバンドが、偶然目の前を通りかかった韓国人留学生を仲間に引き入れて、THE BLUE HEARTSを文化祭のステージで演奏しようぜ!ってな映画で、まあ『心が叫びたがってるんだ。』との共通点がそれほどあるかってのは微妙なとこなんですが。

 しかし、『心が叫びたがってるんだ。』には『リンダ リンダ リンダ』を彷彿とさせるカットが仕込まれていて、僕はそれがめちゃくちゃ印象に残ってるんですよね。それは、ステージで何事かが行われてるまさにその時、カメラが彼女/彼らを離れて、無人の後者を映すカット。

 『リンダ リンダ リンダ』では、1曲目「リンダ リンダ」から2曲目「終わらない歌」へと流れ込み、それが終わると同時にエンディングへ、って流れなんですけど、「終わらない歌」を演奏してる主人公たちはほとんど画面に映さず、無人の校舎をひたすら映し続ける。

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 「リンダ リンダ」でステージ上の彼女たちに寄り添い、彼女たちをほぼほぼとらえ続けたのとは対照的に、もうずっと学校空間が写され続ける。最後はさすがにステージへと回帰するわけだけれども、一種のフェティシズムすら感じるこのカット割りは非常に強い印象を残す。

 『心が叫びたがってるんだ。』はこれほど強烈に学校空間へとフェティシズムを発露するシーンは多分ないのだけれども、それでもステージの上で叫ぶ彼女/彼らからちょっと距離を取り、数カット、多分3カットくらいではなかったかと思うのだが、『リンダ リンダ リンダ』的に無人の学校空間が写される。

 無人の学校空間という、ステージ上のドラマとはある意味切れている場所に視点を移すのは、なんだか異様なものに僕には思える。例えば、同様に学園祭でのライブシーンを題材にしたアニメ版『坂道のアポロン』第7話「ナウズ・ザ・タイム」でも、ステージから視点が移行する場面はある。

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 しかしそれは、生徒がステージ上での出来事を察知し体育館へと向かうという、主人公たちのステージの盛り上がりを裏付けるための視点の以降に過ぎない。そこで映される学校空間は、主人公たちが立つ舞台を一つの極点として組織化されている。空間的にはまったく切断されておらず、ステージの延長としてそれらの学校空間はある。この演出は、主人公たちのドラマを劇的に演出する手法として、おそらくまったく正しい。だからこそ、ステージの熱狂から切断された、ただそこにある空間を写し取った『リンダ リンダ リンダ』および『心が叫びたがってるんだ。』の演出には着目する意味がある。

 この演出の意味するところは何か。それはアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』における学園祭ライブ回「ライブアライブ」を一つの参照軸とすることではっきりとしてくる。多分。

 

日常性の暗喩としての校舎

 なぜいきなり『涼宮ハルヒの憂鬱』「ライブアライブ」が出てくるのかというと、広く知られているっぽいことだと思うのですが、それが『リンダ リンダ リンダ』を強く意識した演出がなされているから。

How to disassemble an atomic code: ハルヒ:季刊エス16 涼宮ハルヒの憂鬱 山本寛インタビュー

How to disassemble an atomic code: ハルヒ: 検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ

 上の記事によると、山本寛氏が意識して参照してるっぽい様子。比較画像をみると、両者の類似は一目瞭然。

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 カット単位で類似があるとはいっても、両者の演出にはっきりとした差異があるのは事実で、それはアニメと実写という媒体の違いによるのかもしれないし、そもそも演出したい雰囲気に明確に違いがあるからだという気もする。

 『リンダ リンダ リンダ』は一貫して抑えた演出に貫かれていて、それはライブのシークエンスですら例外ではない。ブルーハーツの楽曲によって一定の熱量はあるのだけれども、あくまで一定の熱量にすぎない、というか。カット割りも結構淡々としている印象。

 一方でハルヒは曲も相まって過剰に彼女たちENOZの演奏は盛り上がる。長門が超絶テクニックを披露するカットは当時大きな話題に上っていた記憶があるのですが、そういう作画がキメまくってるカットは『リンダ リンダ リンダ』にはなく、「ライブアライブ」独自のもの。カット数自体もちゃんと数えてはいないけど多分こっちのほうが2倍くらい多いんじゃなかろうか。『リンダ リンダ リンダ』と比べると目まぐるしくカットが切り替わる。

 でも多分両者の共通性としてより重要なのは、そうしたカット単位の類似ではない。演出の流れの類似こそより重要なのだ。

 『リンダ リンダ リンダ』における、1曲目「リンダ リンダ」では演者たちを映して2曲目「終わらない歌」で学校空間を映す、という演出の流れは「ライブアライブ」においてもおおよそ踏襲されていて、2曲目"Lost My Music"では誰もいない、雨の中の学校空間が写されて、そのまま雨の音が強まっていって学園祭自体を映すシークエンスは終わる。

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 学校空間が写される時間の感覚も『リンダ リンダ リンダ』を彷彿とさせるものがあり、もちろんテレビアニメという媒体の関係上映画である『リンダ リンダ リンダ』ほどではないのだけれども、なかなかフェティシュに学校空間が映しだされる。『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品にとって、この演出はどのような意味を持つのか。それは、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』が意図的に時系列をシャッフルされて放映された、ということによって、二通りの意味を持つことになった。

 それはいずれも、彼らが、そして私たちが深く根差しているものとしての日常性と深くかかわる。彼ら彼女らがおおよそ同じことの繰り返しであり、えてして退屈ともいえる日々をそこで送らざるを得ないような、校舎という場。それは、学園祭、文化祭という非日常的な祝祭のなかにあっても強固に存在し続ける。毎年毎年、ほぼ同じイベントごとが繰り返されることを定められた学校空間のなかにおいては、祝祭という非日常すら、ある意味では日常の延長に過ぎない。学校空間は本質的に日常的なものとしてしかありえない。だからこそ校舎は、学園祭という非日常の時空間にあって、日常性の暗喩として写されなければならなかったのである。

 まず、放映された文脈のなかに「ライブアライブ」で写された暗喩としての校舎を置いてみると、涼宮ハルヒのもつ能力の超常性、超越性がはっきりと浮き彫りになる。学園祭という非日常のなかにあって、それでも学校空間のもつ日常性の象徴として屹立していた校舎は、2006年における放映順における最終話、「涼宮ハルヒの憂鬱 VI」においてハルヒの無意識の欲望が生み出したと思しき巨人(神人)によって、あっけなく破壊される。

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 私たちが意識するしないにかかわらず依拠して生きざるを得ない日常性の基盤とは、どれほどの強さがあるのだろうか、なんてことに思いをはせたりしなくもないのですが、それについては佐藤俊樹さんの論考で触れられていて以前言及したのでとりあえずここまで。

 単純に時系列的にみるならば、「ライブアライブ」で写される校舎は、ハルヒがこれまでゆっくりと受け入れてきたものの象徴。「サムデイ イン ザ レイン」へとつながる線の中で、暗喩としての校舎は明確に機能している。いつかきっと、彼女が受け入れていくもの。そこへと帰っていかざるをえないもの。たとえそれが「巨人」によって容易に破壊されうるものだとしても、私たちのよりどころはそこにある。

 

 そうした非日常を経由してもなお帰っていかざるをえない場所として、具体的には校舎があり、抽象的には日常的なるものがある。

 『リンダ リンダ リンダ』も『心が叫びたがってるんだ。』も、学校空間のなかでランダムな線が引かれる物語だ。バンド仲間と留学生の間に、ないしは隔絶されていたかに思われる島宇宙的集団の間に。そうしたランダムな線がひかれるのは、非日常的時空間が学校の中に現出するから故なのだけれど、そうして引かれた線は、多分きっと、日常に戻ってもなお、薄れたりはするかもしれないけれども、決して消えることはない。『心が叫びたがってるんだ。』のラストは端的にそういうことなのだ。そのような希望が、たとえその足場がいかに不確かであろうとも、暗喩としての校舎には含まれている、と僕は信じる。

 

関連

 『ここさけ』感想。

 

  『涼宮ハルヒの憂鬱』は日常性の意味が読み替えられていくお話だと思うんすよね、みたいな文章。

 佐藤俊樹さんの文章について。

 

 

 

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【作品情報】

リンダ リンダ リンダ

‣2005年/日本

‣監督:山下敦弘

‣脚本:向井康介、宮下和雅子、山下敦弘

‣出演