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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

「特別であること」の二つの意味――アニメ『氷菓』を貫く問題系として

アニメ 〈古典部〉シリーズ

氷菓 限定版 第3巻 [Blu-ray]

 

 アニメ『氷菓』について、全体を「特別/普通」という軸が貫いているんじゃないかなみたいなことをぼんやり考えていて、考えています。とりあえず今頭に浮かんでいることをメモ的に。

 「君は特別」という祝福、もしくは呪い

 「特別/普通」という対立軸は、多分、「薔薇色/灰色」とも言い換えられるし、以前僕は「持てる者/持たざる者」という言葉でそれを言い表せるんじゃないか、みたいに考えてもいました。

  それに類するモチーフは探せばいくらでも見つかるんじゃないかという気もするのだけど、作中の言葉を借り受けるならばやっぱり、「特別/普通」というのがふさわしい、と思う。それは作中で「特別」という言葉に特別な重みが付与されている、という印象を受けるから。

 「特別/普通」の対立軸は「氷菓」編においてもみられて、『氷菓』の由来をめぐる物語は「特別」だった男、いや「普通」の人々によって「特別」な役目を背負わされた男関谷純の悲劇として読むことができる。とはいえ、関谷純の物語はあくまでも遠く隔たった過去の出来事。「特別/普通」の問題系が過去の出来事ではなく、現在を生きる折木たち古典部の問題として前景化してくるのは、「愚者のエンドロール」編である、といっていい。

 「特別/普通」の問題系の前景化は、「愚者のエンドロール」編序盤、第8話「試写会に行こう!」で奉太郎と里志とがはじめて画面に映し出されるときの会話に、端的に示されている。 

里志「へえ、決勝進出だってさ」

奉太郎「みたいだな」

里志「すごいよね。ああいうのを見ると、僕にも何か才能がとか考えちゃうけど、どうも福部里志には天賦の才はなさそうだ。大器晩成にかけたいところだけど望み薄だね」 

奉太郎「データベースがなにいってんだ」

里志「そりゃ知識に関してはそれなりに自負もあるけどさ、そんなもの極めたってクイズ王にもなれやしないんだよ」

奉太郎「そうか?」

里志「そうさ。羨ましい限りだよ、まったく」

奉太郎「でもま、羨ましいばかりでもないだろう」

里志「例えば?」

奉太郎「天才は、俺たちみたいな普通の人生を望んでも得られないからな」

里志「普通の人生に魅力を感じるのかい、奉太郎? 奉太郎ならそうかもね」

里志「でもはたして奉太郎にそれが送れるかな」

奉太郎「どういう意味だ」

里志「僕は福部里志に才能がないことを知ってる。でも折木奉太郎までがそうなのかは、ちょっと保留したいところだよ

奉太郎「俺の人生が普通じゃないってのは、人間観察がなってないな」

里志「評価を保留したいっていってるのさ」 

  物語の端緒となるこの場面で、「天賦の才」をもつ人間と、「普通」が対比的に語られる。それは「特別/普通」と対応関係にあるといっていいだろう。「氷菓」をめぐる謎解きで奉太郎の特別さの一端を垣間見た里志は、「普通」の側に自身を、「特別」の側に奉太郎を置くわけだが、奉太郎自身はその対比を受け入れはしない。奉太郎の自己認識は知る由もないが、すくなくとも「自分が特別である」ことを他者に向かって自認するような態度は撮らない。

 しかし、奉太郎のなかにも「特別」に価値を置き、自身も「特別」でありたいとする志向があったことが「愚者のエンドロール」編において露わになる。女帝こと入須冬実の手によって。

 ミステリー映画の結末を検討し、そのすべてを棄却した折木。入須は彼に「探偵役」を依頼する。その時に放たれた決定的な口説き文句。

 「君は特別だ」

 入須冬実は奉太郎にこうささやきかける。

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 「君は特別だ」という言葉によって、花びらが一片舞い、そしてその時、折木奉太郎の世界がはっきりと相貌を変える。

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 こうして折木君は「女帝」の手のひらで踊らされ始めるわけだけれども、それを決定づけたのはやはり二度も繰り返される「君は特別だ」、という祝福であると思う。しかしこれは彼の「見方を変える」呪いでもあって、その結果、折木奉太郎は深い挫折感を味わうことにもなる。

  この敗北によって、折木奉太郎は「特別」であることとの向き合い方をどう変化させたのか、それはわからない。しかし、「特別」でありたいという願いは、彼の中でくすぶり続けていて、それがアニメオリジナルのエピソードである11.5話「持つべきものは」 でも強調される。

 

確固たる特別さ/さりげない特別さ

 「持つべきものは」 は、折木がおそらく敗北によるだろう無力感から立ち直るエピソードとして位置づけられるが、それ以上に、「特別」であることに別様の意味が付与されるという意味でも、なくてはならないエピソードだと思っていて、だから番外編的なエピソードでは断じてない、と思う。

 このエピソードでは、折木を祝福し、そして呪った「特別」という言葉が別な形で現れる。それは千反田えるによって奉太郎に投げかけられ、だから女帝の口から、その打算から生まれたものとは全く異なる意味を付与される。

える「折木さんは特別になりたいんですか?」

奉太郎「別に。どの道俺は普通の人間だ」

える「折木さんは特別ですよ、私にとって」

奉太郎「えっ」

える「福部さんも摩耶花さんも特別です。私がかかわった方は、私にとって、みなさん特別です

奉太郎「お前の主観の話はいい。俺は一般論として

える「主観じゃだめですか。周りと比べて普通とか特別とかそんなこと気にしなくたっていいじゃないですか。誰か一人でもいい、特別と思ってくれる人がいれば私はそれで十分だと思うんです。はっ、その、えっと、失礼します」

  千反田は折木にあなたは「特別」だという。それが折木の思い描く「特別」とは遠い隔たりがあることは、このやり取りの中でも浮かび上がる。「一般論として」の「特別」。それは「天賦の才」を持つということと同義で、入須の「君は特別だ」という言葉も、奉太郎はこのような特別さとして受け取ったのだろう。

 しかし千反田はそのような意味では「特別」という言葉を使わない。私とかかわりがある、その一点によって、彼女にとっては誰しもが「特別」なのだ。こういう形で示される「特別」さのことを、僕は「さりげない特別さ」と呼びたい。それは、「天賦の才」によって基礎づけられる「確固たる特別さ」とははっきり区別される。

 アニメ版『氷菓』は、「確固たる特別さ」への希求が断念されていく物語だ、といってもいいのかもしれない。それが如実に表れているのが、福部里志の物語であり、また「クドリャフカの順番」編で語られる青春の群像なんだろうと思う。『氷菓』は、「確固たる特別さ」を求める少年少女を画面にとらえ続ける。その「確固たる特別さ」とは、福部里志にとっては探偵としての才能であり、漫研にとっては漫画を描く能力であり、とにかく、他者に優越した才能に裏付けられる「特別」さである。その「特別」さは、あるもののとっては無邪気に手を伸ばせるものであり、あるものにとってはとっくに断念されたがゆえに他者に「期待」するしかないものであり、あるものにとっては断念したというポーズを執拗に取りつづけはするけれども、それを得たいと願わずにはいられないものであった。

 青春の「痛み」は、その「確固たる特別さ」を諦めざるを得ないというところから生じる。その「確固たる特別さ」は、多くの人にとって断念されるものではあるけれど、作中を通して全否定はされないし、折木奉太郎の物語は自身の「確固たる特別さ」を飼い慣らしてゆく物語だとすらいえるのかもしれない。だから、「持つべきものは」も折木奉太郎の「確固たる特別さ」が古典部の面々の前で再確認されることで決着をみる。

「折木さんのそういうところ、やっぱりすごいと思います」

 ある意味これは入須による「君は特別だ」という呪いと同型ではある。しかし、それが「さりげない特別さ」を共有する仲間から送られたという意味で、折木奉太郎にとっては「特別」なものだったのかも、とも。「確固たる特別さ」と向き合う物語は同時に、「さりげない特別さ」を知る物語でもある。「さりげない特別さ」ってのは多分「普通」と呼びならわされているものと近しい位置にあり、それって「普通に特別」みたいなよくわからないというか、矛盾したものでもある気もするのですが、それが『氷菓』を貫く「特別/普通」の問題の位置なのかも、みたいなことを考えたりしました。とりあえずこんなところです。

 

千反田えると「特別」であること

 作中で多くの人が惹かれてやまない「確固たる特別さ」に、千反田は作中の人物の中でも際立って頓着していないようにみえて、それが彼女の謎を形作っているのかも。それは彼女がその生まれ故に「確固たる特別さ」を帯びざるを得ない、というところからきているのかもしれないけれど。「確固たる特別さ」を生まれながらにして背負わされた彼女だからこそ、「さりげない特別さ」の「特別」たる所以を看過しえたのかも、とも。

 

関連

 「持てる者/持たざる者」という言葉遣いはカッコつけすぎって感じが今になってし、今ならこの記事で書いた「特別/普通」にパラフレーズするかも。

   また、「クドリャフカの順番」編では、「君は特別だ」というまなざし(言葉としては直接投げかけられることは多分ないはず)が、入須のそれとも千反田のそれとも違った意味を付託されて描かれる。「絶望的な差からは、期待が生まれる」。誰かを「特別」なものとして捉えるそのまなざしは、そんな悲痛な「期待」が込められた祝福である、はず。

 

 

「確固たる特別さ/さりげない特別さ」っていう軸、なんとなく気に入ったので使っていきたみがある。

  同じ京アニの『涼宮ハルヒの憂鬱』も、涼宮ハルヒという「確固たる特別さ」(=宇宙人・未来人・超能力者etc...)を希求していた人間が、「さりげない特別さ」(=SOS団というたわいもない集まり)を知っていく物語である、といえるのかも。

 そう考えると『けいおん!』は「さりげない特別さ」を執拗に描いた作品なんだよ!みたいなことがいえるようないえないような気がしますが、与太話はこのへんにしときます。

 

追記(2016/02/13)

 京都アニメーションがこの記事を書いた時にすでに「確固たる特別さ」を正面から取り上げていたことを、この時の僕は恥ずかしながら知りませんでした。

 

 「確固たる特別さ」を諦めざるを得ない人たち≒「きっと何者にもなれないお前たち」?みたいなことがふと頭をよぎったりよぎらなかったり。

 

いままで書いた『氷菓』関連記事のまとめ

 

「氷菓」BD-BOX [Blu-ray]
 

 

 

 

 

 

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