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映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

なぜ彼女は引鉄を引いたのか?――映画『ハーモニー』感想

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 「Project Itoh」の第2弾、『ハーモニー <harmony/>』をみました。原作を読んだのはもうしばらく前なので細部の記憶はあやしいですが、原作の結末をなぞりつつも、決定的な変更が加えられていたように思います。以下で感想を適当に書いとこうと思いますが、その変更された結末の核心部分に触れるネタバレが含まれますのでご留意ください。

生権力の臨界点

  アフリカ、サハラ砂漠。真っ青な空の下に果てしなく広がる砂漠と、向日葵畑。無辺の大地と、それに根付く緑とは、野蛮と文明をそれぞれ象徴しているかのように思われた。向日葵のほうから来りてその境界に立つ、いかにも機能的な衣服をまとった一人の女性。砂漠のほうからは、駱駝にまたがったオールドファッションな男たちがやってくる。そこで、文明の恩寵によってもたらされるものと、野蛮と忌み嫌われる嗜好品とが交換される。その嗜好品とは、酒・煙草。私たちが若干の後ろめたさとか躊躇いとかセットに楽しむそれは、その文明からは駆逐され、ゆえにそれを得るためには文明の端の端に留まるしかなかった。

 文明と野蛮の境界に身を置き続けることを選んだ女。その赤髪の女の名は、霧慧トァン 。彼女が身を置かざるを得なかった文明。それは〈大災禍〉という未曽有のカタストロフの反動によって、極限まで人間の健康を慮ってくれる政府=〈生府〉。身体に組み込まれた〈WatchMe〉という技術は徹底的に身体の健康状態を監視し、コンタクトレンズによって拡張された現実に映し出される様々なアドバイスが、人の心も体も「健康」へと近づける。〈生府〉とそれに飼い慣らされることを選んだ人々のおかげで病気はほとんどなくなり、老いすらも半ば克服されたように思われたけれども、その社会は一部の人たちにとってはあまりにやさしすぎて、だから少なくない子供たちがそれに耐えかねて死を選んでいた。

 霧慧トァンもまた、かつてはそうした「やさしさ」に耐えられなかった少女の一人で、故に死を選び取ろうとした。それを強烈に導いたのが、独特の雰囲気を纏い、確固たる意志をもってやさしさに塗れた社会に憎しみをぶつける少女、御冷ミァハ。「わたしと一緒に、死ぬ気ある?」。ふたりは息苦しさに歯向かうために、死を選び取った。選び取ったはずだった。しかしトァンは、トァンだけがそれを果たせなかった。ミァハは彼岸へと旅立ったが、トァンは此岸に残され、息の詰まるようなやさしさのなかで、それから必死に遠ざかるための生の在り方を探し、WHO螺旋監察事務局の上級監察官として、文明と野蛮の境界を転々とすることになった。それこそが、やさしすぎるこの世界で唯一の、自分の居場所であると信じて。

 しかし、やさしい社会は突如として軋みだす。管理された身体に悪意が注ぎ込まれ、「健康」を窮極の善と信じていたであろう人々が次々と自ら死を選び出す。そうして、やさしく調和してみえた社会は混沌の淵へと動き出し始める。その状況に対処すべく動き出すトァンの前にちらつく、死んだはずのミァハの影。それを追いかけ、彼女は飛ぶ。

 

死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた、と言ってもよい。*1

 作中でも引用されるミシェル・フーコーは、『知への意志』の頻繁に引用される個所で、現代的な権力の在り方をこう指摘している。ここで述べられているのは、端的に言って人間に対しての認識のパラダイムシフトといっていい。絶対君主に象徴される権力は、人間が生きているのは自明なものである、と捉えていた。ほっといても人間は生きているので「生きるままにしておく」し、だから滅ぼすためには力を働かせて「死なせる」必要がある。

 これに対して現代的な権力は、人間をそのようにはみない。人間は、ほっといたら簡単に死ぬのだと、ある時誰かが気付く。だから人間の身体に気を配り、衛生を管理し、生命を守らねばならない。健康な生命が、身体が、生産力を向上させるには不可欠なのだから。逆に、排除するのにあえて巨大な力を浪費する必要はない。「生きさせる」力がなければ、人は「死に廃棄」されてゆくのだから。

 こうした「生きさせる」ことに注力する権力、それを多分、生権力と呼ぶのだろうと思うのですが、それを極大化させた世界が、『ハーモニー』の舞台。徹底的に人を「生きさせる」よう設計されたテクノロジーによって、身体は露骨に「公共的なもの」となり、健康と生命は社会のために維持されてゆく。そうして病や老いから解放された「見せかけの天国」が現前し、調和が保たれているかに思われる世界。そうした世界に生きるものの憂鬱と絶望、そしてそれをグロテスクなかたちで乗り越えようとする革命が、『ハーモニー』では描かれる。

 

 そうした世界を映像で語ることに、いかにも苦慮したのだろうな、というのを正直映画版をみて感じてしまいました。文明と野蛮を砂漠と向日葵で象徴的に示し、その向日葵畑をためらいなく踏みつぶしてゆくトァンの姿を描いたアバンは、台詞でなく映像でトァンの位置を雄弁に語っているという気がし、かなり期待させる感じがあったのですが、全体としてはモノローグと会話を積み重ね続けるような作劇で、原作の記憶が鮮明に残っている人にとっては退屈なのではないか、なんてことを思ってしまいました。

 積み重ねられる会話を、いかに単調でなくするか、というところに相当の演出の工夫がなされているな、とは思って、3DCGを使ってアニメっぽくないカメラの動きを挿入したり*2、会話に重ねて写される美術、とりわけ淡いピンク色で描かれるユートピアや白亜の電脳空間なんかは印象的ではあるのですが、どうにも映像的な刺激に溢れている、とは言い難い、というか。

 とはいえ、映画版ならではの魅力がないかといえばそれはまったくそんなことはなく、ビジュアルと音声を与えられて、御冷ミァハの持つ悪魔的な魅力はいよいよ強烈になった。世界から浮き上がっているように感じられる声が非常に耳に残っていて、「運命の女」的な魅力に満ち満ちている。それが、改変された結末に強い説得力を与えている、とも。

 

あなただけは、あの日のままで

 「次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ」によって見出され、知らぬ間に人々の身体に仕組まれ、そして御冷ミァハがその発動を待望する、「ハーモニー・プログラム」。「わたし」を消し去り、意識を消滅させることによって、世界に調和がもたらされる。それこそがミァハがかつて身を置いていた世界であり、同時に再びそこに還りたいと願う世界。

 それを発動させるために、世界を混沌へとたたき込んだミァハの革命は、トァンの生とその目的とは驚くほど関わらない、と原作を読んだ時に僕は感じていて、それは映画版をみた今も変わらない。トァンは積極的に社会を変えようとする意志はもたない。多分それは、かつて自死を選んだ時のミァハも同様だと思って、社会に自身の身体を侵されないために、社会にコミットしないという途を選ぶために、彼女たちは自殺という方策をとった。それしかないのだと信じ選んだ、自らの身体のみに完結するその方策は、社会との関わりを切断するものではあっても、社会に関わるものではない。

 トァンは多分、自殺が未遂に終わってからも、そのようなかたちで社会に身を置くことを選んだ。自身の身体を根拠として、それをできうるかぎり自身の自由にするために生きる。それが生府の管理の十分に行き届かない場所に身を置くことであり、そのようにして彼岸に旅立つことすら許されなかった、自分の生を統治していた。いまの社会に寄りかかっているという意味では無残な「敗残者」かもしれないが、自分だけは売り渡さない。そんな生き方を、トァンは選び取った。そこにいる人々がある程度は「幸福」であるような社会を全否定することはできないゆえの、消極的な抵抗。身体に容赦なくテクノロジーを注ぎ込むシステムの前に、人はあまりに無力。

 一方、御冷ミァハは、「ハーモニー・プログラム」と出会うことによって、かつての道とは違う、別の生き方を見出してしまった。それは彼女にとってなにより、かつての「楽園」への帰還を約束するものではあったけれど、見かけの上では、自分の身体に閉じこもるのではなく、世界そのものを変えようとする試み。たとえミァハ自身が変わらず自身の身体を根拠としていたとしても。

 こうして意図せず道をたがえた二人が邂逅し、トァンがその生き方を完結させるクライマックス。秩序から混沌へと振り切った針を、ふたたび秩序のほうへと揺り戻すために「ハーモニー・プログラム」が発動されるという世界の流れは、トァンの生き方にそれほど大きな意味を与えない。原作でも映画版でも、トァンは巨大なシステムの前では自身が無力であると悟りきっていて、だからあくまで彼女の目的は、生き方は彼女個人のものでしかない。巨大なうねりの中で、そのうねりにはっきり抗うのでなく、あくまでも自身の願いに拘り続ける。彼女が窮極の健康管理社会のなかでとってきた生き方と、それはまったく同じ。テクノロジーが集約され管理された身体を携えてなお、彼女は自身の願いだけは貫徹させようとする。その願いが調和という圧倒的な力の前に消え去る前に。

 彼女の願いとは、結局何だったのか。それは原作では、愛する人たちを奪われたことへの復讐であった。しかし、映画版では違う。映画版でも確かに復讐の感情はあるのだろうけど、それは表面的なものにすぎなくて、もっと深いところに、彼女の願いはある、と思う。映画でトァンがミァハに送るのは、ゆるぎない愛。愛が彼女に引鉄を引かせる。劇的に変わってゆく世界で、あなただけはあの日のままでいてほしい。そんな独善的な愛。「わたし」が消え去るという運命の前で、「わたし」が最後に選び取ったもの。それを憎しみではなくて、淡い恋心によって選び取らせた結末が、僕は結構好きかもしれない。

  

 このトァンの旅路がどのような位置にあるのかは、冒頭と結末において示される。原作では、「ハーモニー・プログラム」後に生きる人々、(乃至読者であるわたしたち)に読まれる物語としてそれは提示された。しかし、映画版ではどうだろうか。それを読む人の姿は、トァンの人生に深くかかわった人に似通っている。このことが、映画版『ハーモニー』におけるトァンの物語の位置を原作とは大きく変えているのかもしれないが*3、それによってもたらされる可能性のひとつを、僕は受け入れたくはない。

 

 『ハーモニー』って伊藤氏がときたま痛罵していた『新世紀エヴァンゲリオン』の結末とちょっとなんとなく似た手触りみたいなものがあるんじゃね?みたいなことを思ったり思わなかったりするのですがどうなんだろ。巨大すぎるシステムのなかでできることは、あれほど伊藤氏が痛罵した「フォークソング*4を歌うことだったということが、結構僕の心に残ったのですが。

 

関連

 

  トァンの「運命の人」御冷ミァハを演じた上田麗奈さんが、同じく「調和」のタイトルを冠する『アルモニ』でもヒロインを演じられているとは、Wikipediaを確認するまでまったく気づきませんでした。

 

 

ハーモニー ハヤカワ文庫JA

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映画「ハーモニー」ARTBOOK

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自由は進化する

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解明される意識

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【作品情報】

‣2015年/日本

‣監督:なかむらたかしマイケル・アリアス

‣原作:伊藤計劃

‣脚本:山本幸治

‣演出・CGI監督:廣田裕介

‣キャラクター原案:redjuice

‣キャラクターデザイン・総作画監督:田中孝弘

‣プロップデザイン・作画監督:竹内一義

‣音楽:池頼広

‣アニメーション制作:STUDIO 4℃

‣出演

*1:ミシェル・フーコー著、渡辺守章訳『性の歴史I 知への意志』p.175。太字は引用者による。

*2:あんま関係ないですが、主人公であるトァンですら遠めのショットやらで普通に3DCGで描写されてるっぽい?全体として『楽園追放』と同じくらいの質感があったような印象。

*3:これはTwitter上でヒサゴプラン@tsiolkoさんの指摘による。

*4:エヴァ旧劇場版の結末を評した言葉。同氏の映画時評所収の文章だったと思うのですがうろおぼえ。