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理解できないものが眼に焼き付く――『サウルの息子』感想

ポスター/スチール写真 アクリルフォトスタンド入り A4 パターンC サウルの息子 光沢プリント

 

 『サウルの息子』をみました。精神が強烈に圧迫された。以下感想を。

  かつて、ドイツに、いやヨーロッパに、ユダヤ人を強烈に憎悪する人、いや人びとがいた。その人びとの意志が政権に結集したことで、ドイツのユダヤ人は社会のなかで居場所を失っていく。そうしたユダヤ人はゲットーに住まわされたわけだが、彼ら全員を押し込めておくにはゲットーは狭すぎた。そこで彼らを遥か彼方のマダガスカルへと移送しようと計画するもそれもかなわない。そこでゲットーにおいて生存を許しておくという政策から、収容所で劣悪な環境で労働させ、労働力としてその力能を引き出しつつ、人口を減らしていくという「労働を通した絶滅」という方策がとられることになった。しかしそれも、ユダヤ人の人口を効率的に減少させていくには不十分だった。そうして遂に、科学の成果物を用いて人間をシステマティックに殺害していく「最終解決」が選び取られることになる。

 その最終解決、つまりはガス室での大量虐殺が実行されているその場所で、ユダヤ人の殺害のために使役されるユダヤ人がいた。「ゾンダーコマンド」と呼ばれる彼らは、輸送されてきたユダヤ人をガス室へと導き、そして生を喪失した彼らの身体を焼却しその灰を打ち捨てる、そうした作業に従事させられ、それを行っている数カ月の間だけは生存を許されていた。ゾンダーコマンドの一人であるサウルは、そのようにしてシステマティックな虐殺の装置の歯車の一つとして生存を許されていたのだが、ガス室で死に切れなかった少年を目にして、その歯車としての機能が軋み始める。「息子」だと信じるその少年を弔うため、サウルは虐殺の装置から逸脱していく。

 スタンダードサイズの画面にピンボケした風景が映しだされるファーストショットからして、この映画ではなにか途轍もないものを見せられるのではないか、という予感が漂っているのだが、その予感以上に強烈なものをたたきつけられた、という感じがする。ほとんどの時間をサウルのすでに感情を失って久しいであろう顔を至近距離から映し続けるカメラ。長回しの連続に次ぐ連続で、サウルを通して絶滅収容所という我々の理解を絶した空間を、饒舌に語ることなくしかし強烈に提示している、と感じる。

 劇伴もなく台詞も最低限しか発話されないが、フィルムは静寂に包まれているかというとそんなことはなく、追い立てられるユダヤ人たちの声や労働の場に充満するデッキブラシで床を磨く音だったりスコップが地面に刺さる音だったり、身体が燃える音だったりが環境音としてほぼ間断なく鳴り響いていて、臨場感が半端ではない。場面転換を印象付けるのもカットが割られるのと同時に強烈に響く音だった気がする。

 そのようにしてサウルに寄り添って絶滅収容所という一種の極限状態に投げ込まれるわけだけれども、寄り添っているはずのサウルは最初から最後まで観客の理解を絶した存在としてフィルムに焼き付けられている、と感じる。「息子」を弔いたい、それが自分がこの地獄にあって「人間」としてできる唯一のことなのだから。そういう理路は極限状態をほんとうには経験していない僕にも想定はできる。しかしそのようなかたちで「人間」であるために息子を弔おうとするサウルの物語と並行して、全く別の仕方で、つまりその絶滅収容所から逃亡することで「人間」であろうとする者たちの物語が語られることで、サウルの執着はひときわ異様なものに映る、という気がする。収容所で暴動を企てる仲間たちは、息子を弔おうとするサウルに極めて冷淡に感じられるが、自身が暴動において担うはずの役割すら半ば放棄して息子の埋葬のために奔走するサウルは、暴動を計画する仲間にとって迷惑極まりない、ということは事実だと思う。

 サウルに寄り添っているはずなのに、そのわからなさは解消されないし、「息子」がほんとうに彼の息子なのかも明確にはならないあたりでそのわからなさは強調され続ける。そして彼が、最期に思い出したかのように表情筋を動かし始め、その顔がはじめて微笑んでいるかのごとき形相を作り出すショットをもって、その理解不可能性は頂点に達する。この笑みに、さしあたっての解釈を与えることはできるだろう。ただその解釈が、僕を納得させるかというと多分そんなことはまったくなくて、サウルの笑みは理解不可能なものとして、あの瞬間にスクリーンを眺めていた僕には立ち現れたんだと思う。だから『サウルの息子』は僕にとって、「理解不能」な人間に寄り添った結果、決定的に「理解不能」なものを経験させられる、という映画だったという気がする。絶滅収容所の外にいる私たちには決してわかりようのない事柄がある、そうしたものこそ、目を開いて見つめなければならない。それが決して理解に到達することなく、理解不能であることを何度も何度も確認する作業であったとしても。そうした仕方で過去と向き合えと、この映画は語りかけているという気がする。

 

関連

 『野火』をみたときも近しい感覚を覚えた気がする。こういう映画をみると僕は似たような感覚しか出力できないってだけかもですが。

 

 

 

 

【作品情報】

‣2015年/ハンガリー

‣監督:ネメシュ・ラースロー

‣脚本:ネメシュ・ラースロー、クララ・ロワイエ

‣出演

  • サウル:ルーリグ・ゲーザ
  • アブラハム:モルナール・レべンテ
  • ビーダーマン:ユルス・レチン
  • トッド・シャルモン
  • ジョーテール・シャーンドル