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セカイにただ一人だけ――『ほしのこえ』感想

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  新海誠監督『君の名は。』の公開も間近に迫っている今日この頃ですが、Huluで『ほしのこえ』をみていました。以下適当に感想。

 私たちは、宇宙と地上にひきさかれた、恋人みたいだね

 長峰美加子と寺尾昇は中学校のクラスメイト。微妙な距離感にあるらしい二人の時間、これからもこれまでと変わりなく、流れてゆくのかと思われた。宇宙からの侵略者さえいなければ。はるか遠くより来たりしものが二人を宇宙と地上へとひきさき、二人の時間は違うスピードで流れ出す。途方もない距離によって距てられてしまった二人は、どこに逢着するのだろうか。

 新海誠の一気に知らしめたこの作品は、おおよそリアルからかけ離れた独特の時空間を描き出している。念のため確認しておくけれど、「リアルでない」ことは決してネガティブな意味を含まない。ただ「リアルでない」と指摘することに、よい/わるいの価値判断は付随しない。少なくとも僕はそういうふうに言葉を使っている。「リアル」であることが作品のポジティブな印象につながることはもちろんあるけれど、それと同じくらいに、リアルでないからこそ素晴らしい作品になっていることもあるはずだ。

 前置きはこれくらいにして、僕がこの作品を「リアルでない」というとき、そのリアルさを担保するのは何かというと、具体的には人間関係である。別に、宇宙生物の存在とかそれに対抗する人型ロボットとか、なぜかそれに高校の制服らしきいでたちで乗り込んでいることとか、その他諸々を指して「リアルでない」といっているのではない。話はそれるけど、『シン・ゴジラ』の~~がリアルでない、という意見に対してゴジラみたいな怪獣がいること自体リアルじゃないのに何言ってんだ、みたいな反論が大量にリツイートされているのをみかけたけど、この反論ははっきり言ってズレていて、たぶん「リアルさ」が問題になるときに念頭に置かれているのは、ゴジラがいるいないの話じゃないのだ。たとえば巨大不明生物がいるとして、という前提を共有したうえでリアルかリアルじゃないかの話をすべきであって、巨大不明生物がいるからそもそもリアルじゃないんですけど~みたいな姿勢はお話にならないのだ。

 というわけで僕にとって『ほしのこえ』のリアルじゃない感じは別に宇宙人がいるとかいないとか、そういうところにはない。じゃあそれはどこからきたのかといえば、端的に言えば中学を卒業し、国連軍と高校とに進路が分かれた先、そこでの人間関係の描写が希薄にすぎること、この点に尽きる。寺尾昇のその後の人間関係はちょっと画面に挿入されたりもするけれど、国連軍のパイロットになった長峰美加子はそこで他者と交流があるようにはまったく思われない。それは遠く離れた地球にいる寺尾へとメールを続ける必然性っぽいものを担保するためにそういう描写が選択されたのだろうと思うのだけれど、はっきりいって長峰美加子という人間は、国連軍という組織に属しているというよりは、宇宙の果てで一人で戦っている、そういう印象さえ受ける。

 しかしそのリアルでない感じによって、地球の危機という状況が男女二人の距離をめぐるドラマへと縮減され、それがこの作品を短い時間で情動を刺激するようなフィルムにしているのかなという気もする。ただ二人だけしかいない、そのようなセカイを現前させたがゆえに、二人の行動は切実な内的必然性のようなものを帯びているというか。しかしその二人のドラマは、ラスト付近の重なり合うモノローグによって、なんというか異なる二人の人間同士のドラマではなくて、溶け合った一人の人間の告白めいた色彩を帯びているという気もする。二人いたはずなのに、いつのまにか、一人だけになっている、そんな感覚がある。その感覚に、新海誠という一人のクリエイターによってつくられたセカイとしてのこのフィルム、という制作上の諸々を重ねてあれこれ言えるのかもしれませんが、残念ながらぼくにはそこらへんのことを記述する能力はありません。

 『ほしのこえ』と『秒速5センチメートル』って、道具立てはまったく違えど、「距離」と「時間」によって変わってゆく人間関係を主題にしている点では共通している、と思う。しかし人間関係の感覚は『ほしのこえ』と『秒速5センチメートル』では大きく変わっている気がするのだけれど、それについてはちゃんと見直してあとでまたなんか書くと思います。はい。

 

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