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フィクションが距離を突破する――『君の名は。』感想

 前前前世 (movie ver.) 

 新海誠監督『君の名は。』をみました。滅茶苦茶よかった。以下感想ですが、ネタバレが含まれるのでご注意ください。

  

 大彗星が降るという日が間近に迫る、そんなとき。岐阜の山中の集落、神職の家に生まれ育ち、東京への漠とした憧れを抱える宮水三葉は、夢の中で東京の男子高校生立花瀧になって、つかの間の東京を謳歌する。しかし、彼女が瀧になっているあいだ、瀧もまた彼女として一日を過ごしていることに気付く。週に二・三度の繰り返される入れ替わり。つつがなく一日を過ごすため、あるいは相手に問題を起こさず一日を過ごしてもらうため、互いは互いに向けて入れ替わっているときのことを書き、そしてそれを読む。そのようなやりとりが積み重なっていったある日を境に、入れ替わりはもう起きないようだ、という予感が訪れる。彼女に一目会いたい。その思いを抱えて三葉を探しに岐阜を訪れた瀧は、驚愕の事実を知ることになる。

 夢の中で入れ替わる少年少女、という道具立てで新海誠が描くのはまたしても、彼がこれまで執拗に描き続けてきた、人と人とのあいだの「距離」をめぐる物語である。たとえば『ほしのこえ』では途方もない物理的な距離とそれに付随する時間が、また『秒速5センチメートル』では、一見そう遠くは感ぜられないが、「子供」にとっては厳然とそびえる壁となる、そのような空間的距離、そして淡々と流れてゆく時間が、人と人とのあいだに立ちはだかってきた。

 それでは『君の名は。』において人と人との「距離」を成形するものとはなにか、といえば、それは確固とした歴史の現実である、といえる。時は前には戻らない、そして時の流れのなかで消えてしまったものは取り戻すことは往々にしてできない。死んだ人間は還ってはこない。

 『秒速5センチメートル』で描かれた「距離」が、そのあいだを突破できるかもしれない、そのようなものであるがゆえに、その「距離」の強靭さをひたすらに強調するかのような作劇が胸を打ったわけだが、『君の名は。』における「距離」のありようははっきり対照的である。『秒速5センチメートル』における「距離」は現実的な行動によって踏破されうる。それが踏破された状況を容易に想像しうる。『君の名は。』の「距離」、歴史の中で相手が失わてしまったことによって生じた「距離」は、その「距離」は現実においてはどのようにあっても突破不可能である。

 しかし、だからこそ、フィクションにおいては突破することが許されるのだし、それがカタルシスを呼び起こすのだといえる。そのような仕方で現実とは別様の現実、言ってしまえば「嘘」を語れるのがフィクションの特権であり、またその「嘘」を通して「真実」を語ることがフィクションの機能であるとするならば、『君の名は。』はフィクションの可能性にはっきり賭金をおいた、そういう物語を語っている。

 現実の時間の流れは不可逆だが、フィクションのなかではそうではない。作中で、時間が糸のようなものとして語られるわけだが、『君の名は。』においてまさに時間は糸のごとくもつれ、ほつれ、やがてはひとつに紡がれる。そのような糸のようにして流れる時間を武器に、少年と少女は歴史を書き換える。しかし歴史を書き換えたところで彼と彼女の「距離」が解消されるかというと、そんなことはまったくない。

 「いつも何かを失う予感がある」、と『雲のむこう、約束の場所』の冒頭で語れるわけだけれど、新海誠のフィルムには常にその喪失の予感が満ちていて、しばしばそれは作品のなかで現実のものとなる。『雲のむこう、約束の場所』においては、その喪失の予感の根拠は漠としたものだったという気がするのだけれど、『君の名は。』で瀧、三葉の両者が感受するそれは違う。二人が何かが失われてしまうような感覚を抱くのは、現に私たちの多くがそうであるように、夢の出来事、あるいは手触りのようなものが次第に薄れてゆくから。だから、作中にただよう「喪失の予感」はなんとなく普遍化されたものである、という感じをうける。そのような予感は、まさしく私たちが経験し、当たり前のものとして生きる、時の流れのなかで成就する。

 時間の流れのなかで私たちはあまりに多くの事物と出会い、故にあまりに多くのことを忘れてしまう。そのようにして、私たちは日々を生きざるを得ない。忘れてはならないもの、忘れたくないものについて、私たちは何かに書き付けるとかして痕跡を残そうとするわけだけれど、それすらも確かなものである保証はない。宮水神社の存立の根拠が書かれているという書物が歴史のなかで炎に焼かれ消えてしまったように、歴史の流れのなかでは人の記憶の痕跡はあまりに儚い。たぶんいまも私たちのなかで何かが忘れ去られ、あるいは何らかの痕跡が消えさり、私たちの生の痕跡などかけらもこの世界に見当たらなくなってしまうかもしれない。

 だが、そんなことはなんだというのだ。記憶が薄れ痕跡が消えたとして、なにかほんとうに大事なものは絶対に残るはず。ほんとうに大事な何か――それを陳腐な言葉でさしあたっては「愛」と呼んでもよいかもしれないが、それによって時の流れのなかで無限に隔たってしまったかに思われる、人と人との「距離」は突破しうる、というわけだ。

 そのほんとうに大事な何かを形作ったのは何か、というとそれは「書くこと/読むこと」の無数の反復であり、その意味で、『君の名は。』は書くこと・読むことの物語でもある。『秒速5センチメートル』は「読むこと」の映画だったという気がするのだが*1、それが一方通行の営みだったとすれば、『君の名は。』は双方向にやり取りが積み上げられていく映画だったといえる。その双方向性は、演出の差にも顕著に表れていて、『秒速5センチメートル』のモノローグの蓄積によって醸し出される私小説的ともいえる雰囲気は『君の名は。』では大きく後退している。『君の名は。』で積み上げられるのは独白=モノローグではなく対話=ダイアローグであり、『秒速5センチメートル』と『君の名は。』のあいだにあたる『言の葉の庭』のクライマックスにおいて、新海誠はモノローグの作家からダイアローグの作家へと変貌したのではないか、そのようなことを思ったりもしました。

 そのようにして形作られた、大切な何か。それが現実では絶対突破できない「距離」として立ちはだかる歴史を書き換え、また現実に生きる私たちのあいだに「距離」を創り上げる時間の流れにすら打ち勝つ。

   そしてその大切ななにかは、世界のあらゆる場所に転がっていて、だからたぶん僕たちは大切なこととか大切なものとはもうすでにどこかで出会っていて、そういうものをすでに知っているのだ。でもたぶんそれをいつのまにか忘れてしまうのだ。あまりに簡単に、大切なものとか大切なことは時間の流れのなかに消え去ってしまうのだ。でもそれはほんとうには消えてなんていなくて、だから僕らはきっと大丈夫だ。大切なものや大切なことは、もうすでに知っているんだから。あとはそれを思い出しさえすればいいのだ。

知り合う前に会いにくるなよ、わかるわけないだろ

 瀧が照れながら言うこの言葉は、たしかにその通りなのだけれど、知り合う前に出会っているからこそ、僕らはたぶん出会えるのだ。知り合う前に出会っていること、それに気付くことが大事なことなんだ。時間の流れだとか運命だとかそんなものを軽々と超え、私たちがこれまでに歩んできた道のりのなかに埋もれていた大切な何かが輝きだす。そのような瞬間の可能性が含みこまれるこの世界だから、僕らはたぶん、生きてゆける。

  そのような希望に満ちたものとして世界を提示してみせること、それこそがフィクションの希望と可能性そのものであるのだ、と僕は思い、故に『君の名は。』が非常に素晴らしい作品だと思うわけです、はい。

 

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(2020/12追記)後年から振り返っても、2010年代を象徴する傑作であったことに疑いはありませんね、『君の名は。』。

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 「嘘」で「真実」を語る云々は完全に舞城王太郎の影響です、はい。

 

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君の名は。(通常盤)

君の名は。(通常盤)

 

 

【作品情報】

‣2016年

‣監督:新海誠

‣脚本:新海誠

‣キャラクターデザイン:田中将賀

作画監督安藤雅司

‣音楽:RADWIMPS

‣アニメーション制作:コミックス・ウェーブ・フィルム

‣出演

 

*1:それについては『秒速5センチメートル』の感想記事に詳しく書きました。