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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

宇佐美さんの必敗の運命――『この美術部には問題がある!』感想

アニメ

この美術部には問題がある! 1(Blu-ray初回生産限定版)

  ここ数週間くらい、夕飯を食べながら『この美術部には問題がある!』をみていました。この視聴形態かなり(僕にとって)問題があると思っていて、それはなぜかと言えば食べることに気を取られて画面への意識が途切れがちになってしまうからなんですが、それはともかくとして、みていてなんとなく魂が救済されたような感覚があったので、よかったのではないでしょうか。以下適当に感想めいたなにか。

  『この美術部には問題がある!』は、中学2年で美術部員の宇佐美みずきさんが、同じく美術部員である内巻すばるに片思いをしていて、その関係が中心となってコメディが巻き起こったり巻き起こらなかったりする、所謂ラブコメディにカテゴライズできる作品ではなかろうかと思う。

 そのラブコメディからコメディが抜け落ちないための仕掛けによって、宇佐美さんは幸か不幸かラブにおいては必敗の運命を背負わされることになる、なぜならラブコメディからコメディが抜け落ちた瞬間、それはシリアスなラブへと急転直下してしまうのだから。それではその仕掛けは何かといえば、宇佐美さんが恋い焦がれる内巻くんは、自分自身の理想を具現化した「二次元嫁」をキャンパスに写し取ることに余念がなく、現実の、「三次元」の女性にはまったく興味がない、そのことに尽きる。

 この残酷な仕掛けのせいで宇佐美さんは「二次元嫁」への敗北を余儀なくされ、彼女の巻き起こすドラマはすべてコメディの次元へと逢着し、ほのかな前進に心躍らせたりする瞬間と出会いつつも、大筋のところでは彼女はつねに負け続けなければならない。宇佐美さんは負け続けるからこそ、負けるとわかっているからこそ、なんというか彼女の一挙手一投足に魅力が発生して、それがこの作品の魅力の核心を形成している、と思う。それはなんというか無責任で残酷なことかもしれないけど。

 メインの語り手となるのは宇佐美さんで、だから内巻くんがどう思っているのか「ほんとうには」わからない。しかしこの内巻くんを宇佐美さんが変えてしまった瞬間、ラブコメディからコメディが抜け落ち、すなわちこの物語は終わってしまうのだろうと思うのだけど、アニメのなかではそういう兆しはすべて宙づりにされているように感じられ、だから彼女の「問題がある」部活の日々はこれからも多少の変化を含みこみつつ続いていくのだろう、と思う。だから彼女たちは、最後まで下の名前で呼び合うことを選ばない/選べないのだ。

 しかしアニメーションという「二次元」に愛を捧げる内巻くんが、宇佐美さんもまたほんとうには(というか彼らをまなざす私たちからみれば)「二次元」に他ならないのににも関わらず、それに気付くことはない、というのはある種のアイロニーを含んでいるという気がして、だから私たちからみれば「二次元」である宇佐美さんに興味を示さない内巻くんの挙措はそれゆえどことなく滑稽さを滲ませてもいる。

 描かれた人間たちがまた何事かを描く、というような構造は『この美術部には問題がある!』に限らず、アニメーション制作を題材にした『SHIROBAKO』であったりとか、漫画の漫画である『バクマン!』であるとか、無数の作品のなかでみられるものだと思うのだけど、それが単に制作する対象物であるという関わりを超え、恋愛の対象としてまなざされているという点に、『この美術部には問題がある!』におけるフィクション内フィクション描写のアイロニーがあるという気がして、だからもしかして、宇佐美さんが勝利するには、「私たちもまた二次元に生きる存在である」みたいな、メタ的な暴露をかあさないとならないのでは、なんてことを思ったりもしたのですが、それはまあ野暮ってもんでしょう。

 ともあれ、いかようなかたちであれ、宇佐美さんが勝利に辿り着けることを願ってやみません。

 

 部活モノとしてみるならば、『この美術部には問題がある!』における部活は、好意を向ける異性と一緒に過ごせる場としての機能が主なのではないかなーと思ったんですが、おおよそのラブコメで部活が舞台になるとそうなのかもなとも。

  アニメのなかでの部活の機能については以前ちょっと書いたので、ここで繰り返すのはやめておきます。


 

 

 

【作品情報】

‣2016年

‣監督:及川啓

‣原作:いみぎむる

‣シリーズ構成・脚本:荒川稔久

‣キャラクターデザイン:大塚舞

‣音楽:吟(BUSTED ROSE)

‣アニメーション制作:feel.

 

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