11月くらいからちまちま『ふらいんぐうぃっち』を視聴していて、さきほど最終回までみたので、感想を書いておきます。
4月。新米魔女の木幡真琴が青森県弘前市に降り立ち、物語は始まる。横浜から修行のため北の地へとやってきた彼女は、そこで居候する親戚の倉本家の人々とともに、日常を過ごしていく。
誰と戦うでもない、魔女の日常を切り取っていくこの『ふらいんぐうぃっち』では、おおよそ私たちの日常がそうであるように、彼女の周りでは世界の危機など起こらないし、日常を暴力で脅かす魔法使いなどいない。彼女は魔女だけど、魔女とてこの現代に生きる人間であって、そこで日常を生きる一人の人間として、『ふらいんぐうぃっち』の魔女は、真琴は描かれる。
だから彼女の魔法は、誰かと戦うためではなく、その日常を彩るために行使される。魔法によって、真琴たちはその日常からちょっと飛び立つ。それは第1話、ホームセンターで手にした箒を使って飛翔する場面に集約されている。物語の端緒で示されるこの飛翔、これこそが日常を離れ空を飛ぶことができる魔女の力を端的に示す。
しかし、その魔法は同時にそれほど大げさなものでもない、ということが次第に理解されてくる。真琴の魔法はカラスを呼んだりとか食べ物に特殊な効用を与えたりとか、意外なほどにささやかで、あたかも私たちが料理をしたりとか、あるいは畑仕事をしたりとか、裁縫をしたりとか、そうした日常の些事と等価なものとして語られる。だから、料理だとか畑仕事であったりと同じような比重で、魔法をめぐるエピソードが提示され、それを通して、あるいは料理や畑仕事もある意味で魔法的な所作なのだ、ということが暗示されてもいる。
彼女の魔法がそうであるように、私たちのささやかな日常のよしなしごとのなかにも魔法的なるものがおそらく宿っているのだし、それが私たちを日常から飛翔させる可能性もまた潜在させているのだろう。『ふらいんぐうぃっち』は私たちの日常に別の意味を付与する魔法として機能する。その魔法を生きる魔女を形容するなら、平熱という言葉がふさわしい、と思う。真琴のです・ます調をくずさない語り口、そしてそれに物理的な存在感を付与する声優篠田みなみさんの演技、それらは作品のなかで過剰になることなく、あえて平板で淡々としているように感じられる。それが作品全体のトーンを決定して、この作品全体に魔法をかけてもいる、と思う。
都市空間の外の魔女
それとなんとなく気になったのが、いままでアニメのなかの魔女(≒魔法少女)って都市空間と分かち難く結びついてたんじゃないかなーということ。『魔女の宅急便』は、都市へと出発するところから物語が始まるし、『おジャ魔女どれみ』とか『カードキャプターさくら』とか、『魔法少女まどかマギカ』も舞台は都市なんですね。前二者は記憶があいまいにも程があるので言及できませんが、『まどマギ』は都市の物語である必然があった、と思う。
対して『ふらいんぐうぃっち』は非‐都市的なる空間を前提とした物語になっている感があるというか。弘前市が田舎かどうかは措くにしても、真琴の生活圏には田園が広がっていて、それが横浜→弘前の移動を都市→非‐都市の移動であるという読みを誘導している気がする。
だからどうしたという話ですが、都市空間を舞台にしていたら、平熱で日常を生きる魔女の物語は果たして語られただろうか、とも思う。その意味で『ふらいんぐうぃっち』をめぐる、あるいは魔女/魔法少女をめぐる地理を考えていったら面白いんではなかろうか。今後の課題にします(するのか?)。
【作品情報】
‣2016年
‣監督:桜美かつし
‣原作: 石塚千尋
‣シリーズ構成・脚本:赤尾でこ
‣キャラクターデザイン:安野将人
‣音楽:出羽良彰
‣アニメーション制作:J.C.STAFF