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「近代」の夢の廃墟――『傷物語〈III 冷血篇〉』感想

映画チラシ 傷物語? 冷血篇

 『傷物語〈III 冷血篇〉』をみました。いや、ほんとうにアニメ映画『傷物語』がここで終わってしまうのだなと、公開さえ危ぶまれていた往時を偲んで感慨にふけりたくなるわけですが、いや終わってみればこういう形の映画になったことは決して悪くなかったのかなと思います。以下、感想。

   地下鉄構内で偶然出会ってしまった吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードを助けてしまったことで、自身も吸血鬼の眷属となってしまった高校生、阿良々木暦。人間に戻るため、吸血鬼狩りの男たちに奪われてしまったキスショットの四肢を奪還することになった彼は、見事にそれをやり遂げる。根城にしていたかつて学習塾だった廃墟で、彼は安堵と感慨にふける。そしてこの美しき吸血鬼との別れの予感を感じ取り、それを惜しみさえする。しかし彼は忘れていた。彼女がおぞましき人喰いの化物であったことを。

 三部作の最後を飾るこの『〈III 冷血篇〉』で阿良々木暦が突き付けられるのは、自分が助けたのがとんでもない化物であったという事実。自分がこの吸血鬼を助けたことで、無数の人間がその牙にかかって死ぬ。地下鉄構内で弱りはてたこの吸血鬼を、彼は助けた。それは本当に正しい行為だったのか。その始末をつけるための戦いが、この『〈III 冷血篇〉』の中心を為す。

 吸血鬼 vs.吸血鬼。不死身vs.不死身。阿良々木暦とキスショットとの対決は、この二人の化物性をこれ以上無く強調した外連味全開の血闘で、もうここだけでこの映画を見に行く価値があるとすら思う。次々と吹っ飛ぶ首や四肢、飛び散る鮮血、途轍もない速さで地上や空中を駆け回る人間。この現実ではおおよそありえない人間の動きは、化物同士の戦いだからこそ必然であり、そしてそれを不可能なのにもかかわらず可能でありえるそのような動きは、アニメーションだからこそ可能となる。その意味で、この二人の死闘にこそ、アニメーションの魅力たるものの一端が凝縮されている、と思う。

 この決闘の舞台となるのは、いまは取り壊されその跡地に新たな建物が立ち現れようとする、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)である。廃塾の外観を丹下健三の代表作たる山梨文化会館をモデルとしたことに象徴されるように、このアニメ版『傷物語』にはそこかしこに現代日本の近代建築が引用されてきたわけだが、ここに至ってそれが前面に展開され、この阿良々木暦キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとの決闘は、それ自体がその国立競技場でなされたなかでも最も注目を浴び、そしてその場所が光輝いたであろう瞬間、すなわち1964年の東京オリンピックに擬される。それは、なんというかこの作品自体を規定する強烈な磁場を形成すらしている、と思う。

 それについてここで作品と絡めて論じることは僕の手にはあまることだが、印象論を書き留めておくとすると、この作品のなかで吸血鬼は、この21世紀初頭を生きる我々が「古き良き」ものとして回顧しうる、高度成長の時代の影を背負っているように思われる。だから彼らはまさしくその時代を象徴する男の遺した場所に姿を潜め、そして彼らの決着は、その時代が最も輝きを放った瞬間を切り取るようにしてなされる。

 吸血鬼に仮託されたものを雑に「近代」と呼ぼうと思うが、そうした「近代」を肯定的にとらえなおし、かつての「古き良き」時代を回顧する風潮がなんとなく漂っているいまだからこそ、このメタファーは機能する。東京オリンピックという言葉で我々が連想するものは、1964年のそれから2020年のそれへと移りつつある。そのようにして、ふたたびこの国に「近代」の夢が返り咲こうとしている。

 アニメ版『傷物語』においては、21世紀における吸血鬼の復活という物語上の事件が、そうした2016-7年において我々が直面する「近代」の再現前ともいうべき事態とオーバーラップしている、そのように見立てることが可能ではなかろうか。吸血鬼は人の生き血を吸わねば生きられない。そして日本の「近代」もまた――ここで黒船来航以来の歴史まで射程に収めて「近代」という言葉を使うならば――多くの人の血を吸うことによって進行してきた。

 話を物語上の出来事へと戻すならば、この『傷物語』は誰しもが自身の身を捨てて誰かを救おうとする、そうした意志の重なり合いによって物語をドライブさせてきた。しかしその命を捨てて誰かを救う、ということは物語上では一度も成就せず、命を捨てるという試みは試みのままに留まる。命を捨てることなど誰にも許されない。復活した「近代」=吸血鬼は、この『傷物語』では完全に滅ぼされることはなく、その力を奪われたまま人間と共依存関係へと落ち込むという、「不幸」な結末へと至る。

 吸血鬼=「近代」は、それ自体がなかったかのように滅び去ることは許されず、最早力を失っているそれと、われわれ人間はともに生きてゆかねばならない。「近代」との蜜月はとうに去りゆき、もはやそれは私たちから時たま力を奪ってゆき、そしてもしかして再び私たちを食い殺そうとするものかもしれないけれど。

 物語に始まりたるこの『傷物語』を、このような仕方で語ったことによって、この〈物語シリーズ〉自体を、「近代」のあとの物語として読み替えるという可能性が開かれたのではないか。「近代」の廃墟のなかを生きる少年少女の物語として、『化物語』は読むことができるのかもしれないが、それについてはまたの機会に譲ろう。

 

これまでの感想。

 

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近代建築について。

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【作品情報】

‣2017年

‣総監督: 新房昭之

‣監督:尾石達也

‣原作:西尾維新

‣キャラクターデザイン:渡辺明夫守岡英行

‣音楽:神前暁

‣アニメーション制作:シャフト

‣出演