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テクノロジーと自我――映画『虐殺器官』感想

虐殺器官 アートワークス

アニメ『虐殺器官』をみました。以下感想。

  核の炎がヨーロッパの街を焼いた。それでも、かつて人類が恐れたようには、世界は終わらなかった。テロの脅威を摘むために先進国には監視の網の目が張り巡らされ、一方で途上国では無数のジェノサイドが頻発していた。その虐殺の中心には、一人のアメリカ人の影が常につきまとう。その男、虐殺の王ジョン・ポールを追って、アメリカ情報軍・特殊検索群i分遣隊大尉クラヴィス・シェパードは世界をめぐる。

 『屍者の帝国』、『ハーモニー』に続く伊藤計劃作品アニメ映画化の最後を飾るこの『虐殺器官』は、そのプロットはおおむね原作を踏襲しつつも、アニメ化にあたって大胆な改変を行ってもいる。最も具体的な改変は、原作でクラヴィスの内面を構成する巨大な要素だった、母の存在とその死を完全にオミットしたことだろう。原作では夢のようなかたちでたびたびクラヴィスの前に姿を現した母、そして死者の国のヴィジョンは、アニメにおいては彼の前に現前することはない。

 この改変がなぜ行われたかといえば、「ぼく」という一人称で語られた原作の物語から、その「ぼく」の特権性をはぎ取る形で、物語を語りなおすためだろう、と思う。原作においては、クラヴィス・シェパードは「ぼく」として物語を特権的に語る位置にいる。「ことば」によって母を殺したことに煩悶し、同僚であるアレックスの自殺に悩み、そして運命の女に焦がれる。一方、アニメではその特権性をはぎ取られ、主人公という地位にはいても原作のごとき特権的な語り手ではありえない。だから、「母殺し」の代替物として冒頭におかれたようにも感じられる「同僚殺し」は、彼にさほどの衝撃を与えないのだし、母との関係に煩悶する文学的というか私小説的な自我は付与されえない。

 それがいかなる機能を果たしているかといえば、原作の基本的なトーンでもあった、テクノロジーによってもはや成熟することのできなくなった人間像を強化しているように思われる。これは、原作と比べて「虐殺の文法」がより直接的に人間に効果を及ぼしていると思しき描写があることとも関わると思うのだけど、このアニメ版においては、人の感情を操作するテクノロジーの前に、人間は抗うことができないのだ、というトーンがより強くなっている、という気がする。とりわけ、次々と流れ作業のように子供の兵士を殺戮していく場面の不気味なほどの平板さは、彼らがいかにテクノロジーによって内面を規定されている存在なのかということを如実に示している。

 そのように、テクノロジーのまえの人間の無力さが強調されるがゆえに、クラヴィスからは文学的・私小説的な自我は剥奪され、あまつさえクラヴィスの行動が、ジョン・ポールの「虐殺の文法」によって規定されているように感じられる場面が挿入されるのではないか。

 原作の私小説的な語りを、成熟することができないがゆえの自我の葛藤として読むことも可能だろうが、映像化においてそのような語りを導入することが、映画としてのおもしろさにつながるのかと言えば、僕はそうではない、と思う。だから、原作の要素をオミットしてクラヴィスの特権性を剥奪したことは肯定的に捕えられると思うし、それによって原作とは異なるオルタナティブとして首尾一貫した作品になっている、と感じる。この映画において母の呪縛とは無関係に生きるクラヴィス・シェパードも、最終的に原作と同じ答えを選び取る。先進国による収奪の構図をひっくり返すため、我々の頭のなかの地獄を平等に解き放つラストの空虚さは、この映画版においてとりわけ際立ってるように思える。

 

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虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

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【作品情報】

‣2017年/日本

‣監督:村瀬修功

‣原作:伊藤計劃

‣脚本:村瀬修功

‣キャラクター原案:redjuice

‣音楽:池頼広

‣アニメーション制作:manglobe→ジェノスタジオ

‣出演