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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

国立新美術館「ミュシャ展」に行ったよ

お出かけ

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 えー先日国立新美術館で開催されているミュシャ展に行きました。(公式ホームページ:ミュシャ展

 平日だっつーのになかなかの人の入りだったので、これは土日はかなり厳しい感じなのではとか想像してびびりました。それはともかく感想めいたものを書いておこうと思います。

  このミュシャ展の目玉は海外で全部揃いで公開されるのは初という「スラヴ叙事詩」20点で、ミュシャが何者なのかとかそういう知識を抜きにして、このあまりに物理的に巨大で壮大な絵をただ見に行く、というだけでも足を運ぶ価値のある企画展なんではないかと思いました。やっぱりなによりもまず絵そのものが圧倒的にでかいんですね。概ね縦6メートル横8メートルくらいのサイズのようですが、いやなんというか実際のサイズ以上のデカさを感じるというか、大豪院邪鬼的なあれですよ。

 その巨大なサイズ感のおかげで開場のどこに立っていようが否応なしに絵そのものが眼に入ってくるので、絵の直近に人だかりができていておちおち落ち着いて鑑賞もできん、という感じが「スラヴ叙事詩」に関してはなかったので、心理的にもありがたかった。あと写真撮影も一部ではオッケーだったりして、上の写真はそこで撮ったやつなんですが。

 「スラブ叙事詩」は、古代から19世紀ころまでの、スラヴ民族の抑圧と苦難の歴史を、神話的なモチーフを取り入れて描いた作品といったらいいと思うのですが、なんというか美術については門外漢もいいところな僕にとって大変ありがたかったのは、そういう「お話」が絵画にまとわりついているということでした。ミュシャが提示しようとしているナショナリスティックな(ナショナリスティック、という形容が適当かどうかは措くにして)物語は、近代国家によって人間という主体に造り替えられてきた我々に不可避的に訴えかけるものがあるように思います、良くも悪くも。言い方はたぶんよくないですが、これがもし「日本民族」を取り上げていたならば、僕ははっきり言って見に行かなかったと思う。だって単一民族神話みたいなものって未だに完全には葬り去られているようには思えないから。一方、もはや「スラヴ民族」の大同団結みたいなお話は歴史上の物語でしかないからこそ、その不可能性を我々は知っているがゆえに、普遍的なものに開かているような感覚を覚えるというか。

 なんというか絵画よりもその周りの文脈によって、喚起される感覚というのは否応なしに変わってくると思うのですが、企画展の一角にあった映像スペースで上映されていた映像が、ミュシャの生涯と「スラヴ叙事詩」の歴史的な位置づけを簡潔に解説してくれるようなやつだったんですけれど、それがより、この「スラヴ叙事詩」を2017年の東京で眺める、ということに強烈な文脈を加えてくれた、という気がします。

ミュシャを楽しむために:スラヴ叙事詩

 そのおおよそは上にリンクを貼った公式のやつにも記載されているのですが、その解説を要約するならば、ミュシャが「スラヴ叙事詩」製作に取り組んでいた1910年から1928年のあいだに、「スラブ叙事詩」は二重の意味で時代遅れのものになってしまったのだという。ひとつは汎スラヴ主義というテーマにおいて、もうひとつは表現の手法の点において。

 第一次世界大戦後に民族自決が叫ばれヨーロッパでは様々な国が独立したわけだけれど、それによって、「スラヴ民族」という巨大なネイションの構想を理想とした「汎スラヴ主義」は最早現実味を喪失し、そのスラヴ民族の苦難と抑圧の歴史、そして解放の希望を謳った「スラヴ叙事詩」は時代錯誤のお話になってしまった。

 一方で、ミュシャが「スラヴ叙事詩」の製作に取り掛かかり始めたころ、彼がかつて暮らしたパリでは革新的な表現がまさに生まれようとしていた。その手法はキュビズム、その中心を担ったのはパブロ・ピカソ。「スラヴ叙事詩」はそうしたなかで、表現上の革命に取り残された作品として眺められざるをえなくなっていった。

 というのが「スラヴ叙事詩」が1928年に完成をみたときの歴史的な文脈だったようですが、そのようにして発表された当時は時代遅れの産物でしかなかったものが、おおよど100年の時を経てある種の普遍性に開かれたものとして現前している、ということに、芸術作品をとりまく時間感覚のおもしろさはあるのかな、と思ったりしました。

 

プルーストミュシャとパリ

 その「スラヴ叙事詩」以外にも、堺市所蔵のコレクションを中心にミュシャの作品が展示されているのですが、こういう言い方は適切かどうかわかりませんが、驚くほど俗っぽくて、「スラヴ叙事詩」とのギャップにビビりました。「俗っぽい」というとネガティブな印象を与える言葉選びかもしれませんが、100年の時を経ていまなお「俗っぽい」という印象を喚起することはとんでもないことだと思うわけです。たぶん、明治期のポスターなんかをみても、古めかしいものに対するノスタルジーは喚起されても、「俗っぽい」とは思わない、気がする。その未だに感受される俗っぽさは、「スラヴ叙事詩」とは別の文脈での普遍性が内在しているように感じられる。

 そういうミュシャの作品で、なんというか素晴らしいタイミングだなとなったのは、ここ半年くらいぼんやり読んでいる『失われた未来を求めて』で語り手が憧憬する大女優ラ・ベルマのモデルになったとされる、サラ・ベルナールのポスターが、ミュシャにとっての出世作だった、ということ。『失われた時を求めて』のなかでミュシャに対する言及が直接あったかは覚えていない、多分なかったと思うのだけれど、よくよく考えればプルーストもおそらくミュシャと同時代のパリの空気を吸った人間なわけで、自分のなかで接点があるとは思いもしなかった人物が、運命の女を通じてこうググッとシンクロした感がなんとうか得難い体験だったなと。というわけでその点でも大変おもしろかったです。

 

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)

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そのあと、『君の名は。』の瀧くんのバイト先でおいしいお酒を飲んだんですけど、なんか『君の名は。』の舞台をめぐりを意図せずしてやってしまった的な文脈が発生しました。

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  国立新美術館に行ったのはこれ以来でした。

amberfeb.hatenablog.com

 

 


 

 

ミュシャ展

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もっと知りたい ミュシャの世界 (TJMOOK)

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