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兵士たちの顔――『ハクソー・リッジ』感想

ハクソー・リッジ (オリジナル・サウンドトラック)

 『ハクソー・リッジ』をみました。前評判に違わぬすさまじさ。以下感想。

  もはや周囲の状況も分からぬほどの土煙。横たわる無数の死体。その風景を形容するには、地獄という言葉がふさわしい。互いが互いを殺し合い、生と死の境界とが容易く溶け合う場所に、生者と死者とのあいだに、彼はいた。1945年、日本、沖縄。銃を手に取らないと誓った男が、なぜその地獄に身を投じたのか。そして彼の行為はいかなる意味を生み出したのか。

 良心的兵役拒否者でありながら、前線で多数の兵士を救った英雄、デズモンド・ドスの実話の映画化。ヨーロッパ人の侵入以前の南米先住民を題材に、血と暴力によって容赦なく彩られた傑作『アポカリプト』から10年、メル・ギブソンが題材にしたのはまた別の種類の血と暴力、近代的なるものの極北としてこの世に生み出された地獄だった。総力戦という暴力の形態は、否応なしにその社会に生きるおおよそあらゆる人間を巻き込む。その地獄に巻き込まれながら、それでもその地獄に抗うようにして生きた男が、この物語の主役になる。

 そういうわけでこの映画の巨大な魅力はむき出しの圧倒的な暴力が画面に張り付いた後半の沖縄戦で、前半のドスの生い立ちと、軍隊内で自身の信念が葛藤と軋轢を生じさせるパートは、後半の地獄そのものが立ち現れてくるパートと比べるとどうしても印象は薄くなる。それでもやはり印象的な画はいくつもあり、ドスが育ったヴァージニアの山並み、それを見下ろす崖とが構成する彼の故郷の風景の美しさは、艦砲射撃によって殺風景な荒野と化した沖縄とのコントラストが鮮烈なこともあって強く印象に残った。

 後半の沖縄戦のすさまじさは、もう言葉でいかに語ろうがあの圧倒的な映像と音響の前ではたいした意味はなかろうというものですが、『プライベート・ライアン』のオマハビーチからさらに凄惨さと混乱とをブーストさせて一歩先に進めたような印象。『プライベート・ライアン』と対比すると、艦砲射撃によって立ち上った土煙と、乱戦の最中は兵士の固有の顔を(たぶん)ほとんど映さず、敵も味方も容易に判別がつかない混乱度合いが『ハクソー・リッジ』の特徴ではないかという気がする。敵たる他者である日本兵は、誤解を恐れずいえばゾンビ映画のゾンビ的な、コミュニケーションを絶する存在として現前する。

 そのような銃弾と爆発の嵐を経て、米軍がいったんハクソー・リッジから撤退したのち、取り残された負傷兵を救出するためドスが孤軍奮闘するパートになると一転、固有の顔が兵士に取り戻されていくような印象を受ける。このシーンのクライマックスは、ドスの信念を否定し続けてきた軍曹を救出するシークエンスだと思うのだが、ここで初めてドスが銃を取る――当然ふつうの「兵士」が銃をとるのとはまったく違う用途のために――所作こそ、ドスの信念のもつ意味がもっとも際立つ場面ではないか。それは少年時代、ドス自身が他者を傷つけるために手を取った煉瓦、あるいは父親が折檻のさいに用いようとしたベルトが、青年時代まったく別の文脈、自動車事故に遭遇した他者の命を救うために再び画面に姿を現すのとまったく同型であり、だからドスの信念の力というのは、血と暴力へと組織されるものに、まったく逆のベクトルをもつ文脈を読み込む力なのだろう。

 その力が顔を剥奪された兵士に再び顔を取り戻し、そしてゾンビ的なるものとして立ち現れていた日本兵すら、最後には明確な顔をもつ他者としてその最期を迎えるのだろう。だからデズモンド・ドスが傷ついた兵士の命を救おうとするこの映画は、近代的なるものの力で顔を奪われた兵士たちが、再び固有の顔を取り戻す映画でもあるのだ。

 

 

Digital Booklet: Hacksaw Ridge

Digital Booklet: Hacksaw Ridge

 

 

 

激動の昭和史 沖縄決戦 オリジナル・サウンドトラック

激動の昭和史 沖縄決戦 オリジナル・サウンドトラック

 

 

【作品情報】

‣2016年/アメリカ

‣監督:メル・ギブソン

‣脚本: アンドリュー・ナイト、ロバート・シェンカン、ランダル・ウォレス

‣出演