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ゲームのためのゲーム――小川哲『ゲームの王国』感想

ゲームの王国 下

 小川哲『ゲームの王国』を先日読みましてめちゃくちゃ面白かったんですが読んで読みっぱなしになってたので一応感想書き留めておきます。

  20世紀。共産党と秘密警察とが血みどろの暗闘を繰り返す、陰謀渦巻くカンボジア。やがて革命が成就し、そして死体の山が築かれることを私たちが知るその場所で、サロト・サル=ポルポトの隠し子である少女ソリヤと、都市から遠く離れた農村にありながら異様な天才性を発揮する少年ムイタックはいた。少女と少年の生は一瞬まじわり、そして時を超え、再び出会う。

 『ゲームの王国』は、革命前夜からクメールルージュ統治時代を舞台とする前半と、そこから約半世紀後、̪至近未来に舞台を移す後半とから構成される。前半ではSF的な道具立ては前景化せず、様々な語り手の視点を借りて、マジックリアリズム的な語りと近代小説的な(って形容が適当かはちょっとわからんですが)語りとが混在しながら、わずかなミスが死に直結する独裁政権下で、二人の物語は語られる。

 マジックリアリズム的な語りの自然さと配置とが実に見事で、輪ゴムが切れると凶事が起こる、土を口に含むことでその声を聞くことができる、といった超自然的な世界の法則のなかで生きる人間と、ムイタックなど近代的な価値観のなかに置かれている人間とが共存し、しばしば前者が後者に侵入してくることが、カンボジアという土地の独特の磁場を構成し、後半のSF的な道具立てが前景化してくる展開にスムーズに入っていける、ような気がする。

 そうした独特の世界のなかにあってなお、下手な異世界よりもはるかに異様であり、しかし同時に強烈なリアリティで描写される、クメールルージュ統治下の生活の緊張感がすさまじい。後半パートに入って若干雰囲気が弛緩するわけだけれど、全編この緊張感に貫かれた物語も読みたかったようなきもする。

 さて、この『ゲームの王国』だが、一種のゲーム論というか、ゲームについての批評というふうにも読めるという気がする。ソリヤは選挙を通して権力を握り、カンボジアに「ゲームの王国」を現出させようとする。対するムイタックは、ソリヤの当選を阻止するため、脳波を用いたゲームによって自身の記憶を他者に追体験させ、彼女が虐殺に関わった過去を知らしめようとする。ゲームによって何事かをなそうとする二人の行為は、両者とも挫折する。そしておそらく、彼岸にて二人は再びゲームに興じるのだ。なんのためでもなく、ゲームのために行われる、ゲームのためのゲームに。

 ゲームになにか外在的な意味など付与される必要などなく、ただゲームであることに自足し、それそのものこそが目的であるようなゲーム。なにかのために、という目的意識の奴隷であることから、ひとときでも我々を解き放つ可能性をもつゲーム。そうしたゲームのなかにやどる純粋な快と愛との物語が、『ゲームの王国』では語られているのではなかろうか。

 

 『ガッチャマンクラウズ』の構想と「ゲームの王国」の夢とは結構重なるものがあるんじゃないかなとか思うんですが、それを語るには準備が足りないので、宿題にしときましょう。

 

ゲームの王国 上

ゲームの王国 上

 
ゲームの王国 下

ゲームの王国 下