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彼らの行方は誰も知らない――『スリー・ビルボード』感想

映画チラシ スリー・ビルボード フランシス・マクドーマンド

 『スリー・ビルボード』をみました。以下感想。

  アメリカ合衆国ミズーリ州、辺鄙な街、エビング。おそらく、現代。人通りもまばらな街はずれの道沿いに、もはやその機能を果たしていないぼろぼろの三つの広告看板があった。娘を強姦殺人によって失い、遅々として進まぬその捜査にいらだちを覚えていた女、ミルドレッド・ヘイズは、その看板を使って警察を挑発することを思いつく。その思い付きが嵐を招くこともしらずに、あるいはそれを予感して。

 中西部の田舎町で、三枚の看板が巻き起こした騒動を描く『スリー・ビルボード』は、極めて類型的な場所で極めて記号的に配置された人間たちが、事件を通してその記号からほのかに逸脱していく、そのような映画だった。娘を奪われ怒りを燃やす女、彼の世の怒りの矛先を向けられる警察署長、その署長に心酔する、粗暴な警官。この3人が、とりわけ女と暴力警官とが、いままでいた場所とは違う場所に辿り着く、いや辿り着いたかもしれない物語。

 フランシス・マクドーマンド演じるミルドレッドと、サム・ロックウェル演じる暴力警官ジェイソン・ディクソン巡査とは、ともに学のない、貧しい人間であることが折に触れ示唆され、だからこの映画は、貧しい白人たちの生の在り方を描こうとする物語なのだろう。彼らはアメリカ人が海外のどこで戦争しているのかも知らないし、たぶん世界の地理など頭のなかにはない。彼らは人生のなかで、リベラルな、「政治的に正しい」ものの見方を身につける機会と出会わなかった。

 だから彼らのうちには、異質な他者――それは具体的にはアフリカ系のアメリカ人であり、小人症の人間であったり――を自身と切断し、見下すまなざしがぬぐいがたく内面化されている。そして物事を解決するためのコードとして、暴力をさも当然のように選択してしまう。それを間違っている、愚かなことであると断罪するすることは容易い。劇中でも、暴力は暴力によって贖われるのだし、ミルドレッドの暴力は、物語が始まった時点で既にその罰がドラスティックなかたちで先払いされている、ともいえる。しかし、その暴力は究極的には否定も肯定もされず、回答は宙づりにされたまま物語の幕は閉じる。答えは「道々で決めればいい」のであり、私たちは彼らの道行を知ることができないがゆえに、その答えは知られることはない。

 なぜそのような物語が語れらねばならないのか、それはアメリカ合衆国という場所をとりまく「いま・ここ」の状況を鑑みれば、容易に推定できる。

「世の中に片付くなんてものは殆ほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他ひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」*1

  そういうことなんだろうと、思う。

 

 

スリー・ビルボード

スリー・ビルボード

 

 

 娘の部屋にこのポスター貼ってあるの、流石に悪趣味杉ではとなってビビりました。

In Utero

In Utero

 

 

【作品情報】

‣2017年/アメリカ

‣監督:マーティン・マクドナー

‣脚本:マーティン・マクドナー

‣出演

*1:夏目漱石『道草』