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ちがう歩幅で一緒に歩く――『リズと青い鳥』感想

映画『リズと青い鳥』オリジナルサウンドトラック「girls,dance,staircase」

 『リズと青い鳥』をみました。掛け値なしの傑作です。以下感想。

  歩く、歩く、立ち止まる。彼女の姿を認める、再び歩く。歩く、歩く、一緒に歩く。歩く、歩く、校舎を歩く。歩く、歩く、彼女の数歩後ろを歩く。歩く、歩く、音楽室へ歩く。二人は一緒に歩いてきた。これまでは。しかし、いつまで一緒に歩いてゆけるのだろう。

 『響け!ユーフォニアム』および『響け!ユーフォニアム2』のその後の物語を、山田尚子監督が映画化。監督が変わり、タイトルからユーフォニアムの文字は消え、雰囲気もまた大きく変化して、続編的な立ち位置にも関わらず圧倒的に山田尚子のフィルムであるという強烈な主張が前景化している。

 そうして、既存の作品世界を大胆に再編成して語られるのは、静かな決別の物語。中学時代からともに吹奏楽に取り組んできた二人。彼女たちがそれぞれの行き先を見出すまでの道を、コンクールで演奏する楽曲であり、また童話でもある「リズと青い鳥」と重ねて語る。

 語り口は極めて抑制されている。静謐な雰囲気の劇伴と、言葉少ななキャラクターたち。大きな出来事――テレビアニメで画面に映されたような真夏のプールやお祭り、オーディション――は作為的に画面から排除され、あくまで日々繰り返される練習の風景が反復される。しかし、その抑制された雰囲気、大げさなものではない所作のひとつひとつ、かすかな手の動き、わずかにうつろう目線、あるいは言い淀んで消えてしまった言葉たち、そうした微細な運動のなかに、強烈なエモーションが託されていて、だから彼女たちの日常には否応なしに緊張感がただよう。

 なかでも、映画を制御するモチーフ、映画のありかたをしめす暗喩として機能しているのは、歩く、この運動である。冒頭、校舎内を歩く二人の様子が執拗に映される。朝、校舎の前で誰かを待つ鎧塚みぞれ。彼女にしばし遅れて登場する、傘木希美。内気で言葉少ななみぞれを中学時代から導いてきた彼女の来歴を雄弁に語るがごとく、校舎のなかで希美が先導するかたちで音楽室へと歩みを進めていく。その後ろにはわずかにうつむきつつみぞれが従う。

 このシークエンスで、二人の歩幅は奇妙に一致している。『リズと青い鳥』は、いままで同じ歩幅で歩いてきた二人が、それぞれの歩幅の違いを次第に知っていく物語だといえる。明るく笑顔を振りまいて、後輩に慕われる傘木希美と、内向的な性格から後輩となかなか打ち解けられない、打ち解けようとしないようにみえる鎧塚みぞれ。くっきりとしたパーソナリティのコントラスト。

 しかし、そのような対照はみせかけのものにすぎず(みぞれはみぞれの仕方で、後輩と打ち解けてゆくのだから)、二人の歩幅を真に隔てるものは、楽器を吹くことに天賦の才をもつか否か、という点にあることが露わになる。『響け!ユーフォニアム』で語られた主題、特別なものとそうでないもの、という主題が、ここで違う仕方で変奏されることになる。

 それでは冒頭、二人の歩幅があくまで一致していたのはなぜか。それは彼女たちを取り巻く環境に起因するものであることを、フィルムは雄弁に教える。彼女たちは校舎の手前で出会い、そして校舎のなかを歩き続ける。この校舎、そしてそれによって象徴される学校制度こそ、二人の歩幅を一致しているようにみせていた魔法の正体なのだ。『リズと青い鳥』におけるこの魔法の強力さは、カメラがほとんど学校の外に出ないことによって支えられている。学校制度とはすなわち、ある特定の年齢の集団をひとつの箱に押し込んで、同じ歩幅で歩くように規律訓練する場なのだから。学校とは同じ歩幅で同じように歩く、歩かねばならない、そうした要請が強烈にはたらく場なのだ。

 しかしその学校制度は、しかし決して皆がほんとうには同じ歩幅で歩くことができるわけではない、という相矛盾する格率をも我々に強要する。試験と選抜のメカニズム、そしてその緊張が極点に達する受験という制度によって。学校という鳥籠のなかで流れる時間は、互いの歩幅がどうやら少しずつ、あるいははっきりと異なるものであるらしい、と教える。そして、違う歩幅をもつものの行き先はある機会をきっかけにして明確に分かたれ、同じような歩幅で歩くことのできる人間は、おおよそおなじ行き先に向かって歩いてゆくことを強いられる。しかも、それを自身で「選んだ」ものとして引き受けよ、という要請をともなって。この物語が「特別であること」の意味を語るために使った道具立ては、校舎という鳥籠、学校制度という近代の檻の残酷さをあらわにする。

 とはいえ、違う歩幅だからともに歩くことはできないわけではないということを、『リズと青い鳥』は教える。彼女たちはそれぞれ異なる行き先を定める。だから彼女と彼女はいったんは別々に歩いてゆく。しかし、それでもまた、彼女たちは出会い、今度は校舎=学校の外の通学路で、ややぎこちなく、あるいは悠々と、彼女たちは歩いてゆく。二人がそれぞれの歩幅の違いを見出す物語は、こうしてちがう歩幅で一緒に歩いてゆくこともできるのだと知る物語に読み替えられ、ひとまずのピリオドが打たれる。学校制度の呪いをぼんやりと浄化していく可能性、校舎の窓にまぼろしのようにその姿をみせる青い鳥、その影が、彼女たちの歩みに宿っている。

 

関連

  いくつか、本文に組み込めなかった点を補っておきます。

 『リズと青い鳥』においては、「出来事」が画面から慎重に排除されている。その排除された「出来事」のひとつがオーディションであって、オーディションの存在は明確に言及されるが、観客である私たちは当のオーディションを眺めることは許されず、剣崎の発言を通して、オーディションが「既に終わっていた」ことを知らされる、という構造になっている。1期において、「特別さ」を賭けたゲームのアリーナであり、ひとつのクライマックスを形成していたオーディションは、この映画では舞台としての役割を剥奪されている。

 しかし、『リズと青い鳥』においてもまた、「特別さ」を賭けたゲームが争われていたことを私たちは知っている。それはオーディションという「出来事」ではなく、あくまで日々の習慣、日常のなかで唐突に、そして一方的に起こり、「特別」でない側は自身の敗退をはっきりと突き付けられてしまう。こうして『リズと青い鳥』において、特別さをめぐるゲームは出来事の軛から解き放たれ日常に偏在し、それが校舎ないし学校という空間の残酷さをより際立たせている。

 『リズと青い鳥』は、「リズと青い鳥」というテクストを、そしてそこから逆照射される他者を、読み/読み違え/読み替えることが、作品のドラマを形成する。それは、黄前久美子田中あすかを、あるいは黄前麻美子を読み/読み違え/読み替えることが作品の核心にあった『響け!ユーフォニアム2』の変奏・反復である。

 『響け!ユーフォニアム2』において「リズと青い鳥」に相当するテクストはおそらく見当たらないが、あえて探すとすれば、父から娘、そして他者へと託されてゆく楽譜を対応物とみなしてよいかもしれない。しかし、その楽譜を読むというモーメントは前景化しない(楽譜は読まれるというよりは、「託される」、もしくは作中の楽譜一般に目を向ければ思いが「書き込まれる」場所であったように思う)。しかし、テクストは読まずとも、『響け!ユーフォニアム2』は他者を読む物語であった(それが黄前久美子にある種の「探偵」的なたたずまいを与えている)。

 『リズと青い鳥』においては、テクストを導入することによって、「探偵」でなくとも他者を読む主体として個別のキャラクターを違和感なく立ち上がらせているなと、思う。

amberfeb.hatenablog.com

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  傘木希美と鎧塚みぞれのそれぞれの「特別さ」は、「確固たる特別さ」と「さりげない特別さ」が、まさしく正面からぶつかりあうような場面ではなかったかと思います。

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 『映画 中二病でも恋がしたい!』でうやむやにされた近代学校制度の呪縛が、こうしたかたちで変奏されるとは、いや素晴らしいと思いました。

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【作品情報】

‣2018年

‣監督:山田尚子

‣原作:武田綾乃

‣脚本:吉田玲子

‣キャラクター原案:アサダニッキ

‣キャラクターデザイン: 西屋太志

‣音楽:牛尾憲輔

‣アニメーション制作:京都アニメーション

‣出演