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空疎な/人間/賛歌――『来る』感想

来る

 『来る』を見たので感想書いときます。

  『渇き。』以来の中島哲也監督作品。まず我々に与えられたそのタイトルの二文字が、独特な印象をもつ。何かが「来る」らしい。それではいったい何が?その何かによって蹂躙される人間どもを写し取るこの映画では、しかしその「何か」はまず、タイトルに現れることのない空虚として我々に現れる。原作においては「ぼぎわん」と名指されていたその「何か」は、この映画のなかでは基本的にその名をはぎ取られ、空疎な「何か」として人間どもに牙をむく。

 空疎。『来る』とはすなわち、空疎の映画だといってよかろう。その「来る」という「何か」は、それ自体は具体物として現れず、ポルターガイスト的突風であるとか、はたまた知人の声色を借り受けた電話越しの声として、もしくはそれが唐突に人間を殺傷した結果としてしか現れない。「何か」そのものは徹底して空疎である。

 そしてその空疎なるものの支配するこの映画において、空疎さの極点にあるのは愚かな人間どもで、妻夫木聡演じる夫ないし父の姿の素晴らしい空疎さはこの映画の魅力を間違いなく形作っている。その空疎さをあざ笑う男もまた素晴らしき空疎であり、この徹底して人間を空疎の重力に巻き込んでいく勢いがこの映画を形作る。

 空疎な「何か」が、圧倒的な暴威をふるって空疎な人間どもを殺戮するのだが、その「何か」が、「何故」そんなにも人間を襲うのか、ということは問われない。「何か」の動機は空疎なものとして留め置かれ、松たか子演じる最強の霊媒師は、「何故」よりもどう対応するかが問題なのだと語る。

 この最強の女が語るこの格率がすなわち作品世界の格率であって、この世界では人間が「何故」そうしたのかなどということは何の意味もなく、現実にどう行動したのか、ということだけが僅かに意味を持つ。岡田准一演じる男が妻夫木を「家族を守ろうとしていた」と評したのも、どんな愚かで空疎な内面に突き動かされていようとも、切実な行動があったからだし、小松菜々演じるヒロインが作中で最も輝いているのは、彼女が徹底して対応のために行動し続けるものとして立ち現れているからだ。人間が動機とか理由とかそういう内面に撤退したとき、そこにあるのは高尚で文学的な煩悶などではなく、徹底して無意味な空疎なのであり、だからこの作品世界では、ただ行動だけが意味を持つ。

 しかし中島哲也という作家は、人間どもの空疎な内面を嘲笑したうえに、そのわずかに意味をもつ行動すらも、独特のおかしさを纏わせて画面に映し出さずにはいられなかった。最強の霊能者の儀式が、郊外の歴史性のない場において、有象無象のモチーフのブリコラージュのような仕方で為される、このクライマックスのある種の馬鹿馬鹿しさに、そうした内面の空疎さを笑い、その内面を破棄した行動の滑稽さをも切り取らずにはおれなかった目線がある、ような気がする。

 とはいえ、そうして語られたのはいかに愚かで滑稽であっても、人間賛歌だったのだと思う。それは「空疎な」人間賛歌ではない。「空疎な人間」のための、すなわち我々のための人間賛歌なのだ。