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棺桶とガラスの手触り――『ファースト・マン』感想

ファースト・マン オフィシャル・メイキング・ブック ビジュアル&スクリプトで読み解くデイミアン・チャゼルの世界

 『ファースト・マン』をIMAX字幕版でみました。以下感想。

  男は月を目指していた。それは彼の野望でも宿願でもあったのかもしれないが、寡黙な彼は言葉を弄してその心のうちを語ったりしなかった。その男にとって、月を目指すことはひとまず何よりも仕事だった。しばしば人が命を落とす、命がけの仕事。国家同士の威信を賭けた闘争でもあり、また国民の血税が途方もなくつぎ込まれた巨大事業でもあったが、それは彼にとっておそらくどうでもよいことだった。ただ、彼方にある月を目指す。そこに辿り着いた時、彼は何を得、何を失うのか。

 デミアン・チャゼル監督の最新作は、ニール・アームストロングを主役に据えた伝記映画。狂気と才気の迸る『セッション』、幸福に満ちたにぎやかさと、祭りの終わりのごとき寂寞感とが同居した『ラ・ラ・ランド』と比すると、静かな緊張感が画面を満たしており、極めて禁欲的でタイトな印象の映画になっている。

 その緊張感を生み出している要因の一つが、登場人物たちを極めて近距離から映したカットが連発され、この映画を構成する時間のうちの多くを占めているという点だろう。ロングショットはほとんど使われず、NASAであるとかケープカナベラル宇宙センターであるとか、ニール・アームストロングをとりまく空間についての情報は極めて乏しい。

 対照的にライアン・ゴズリングはじめとする俳優陣の顔を眺めることになる我々は、そこにどんな感情が映されているのかに、否応なく思いを巡らすことになるのだが、その試みに決定的な解=快が与えられることはほとんどないといっていい。とりわけ、ライアン・ゴズリングの、幸福の実現ということをはじめから放棄したかのようなたたずまい、いかにも無感動な印象を与える表情は、この顔から内心を類推することを諦めさせるような力がある。

 そうした不気味な顔に彩られた、この窮屈な緊張感に満ちた映画において、なぜその窮屈さが要請されたのかといえば、それは明々白々であるといっていい。それはひとえに、彼らの居場所がまさに棺桶であるからだ。棺桶がどのようなイメージを喚起するのか、それが死であることもまた極めて自明である。この死と棺桶のイメージは、ニールの娘によってはっきりと接続される。治療の甲斐なく亡くなった娘の死。その死の瞬間、臨終の間際の様子を、カメラは切り取らず、ニールが娘の髪を愛おしそうになでる場面から、一気に埋葬の場面へと転換する。ここで娘はその身体を画面に晒すことなく、ただ死の暗喩的イメージたる棺桶として画面にあらわれる。そしてこの映画は、まさにその棺桶に呪われた映画として、我々の前に立ち現れるのである。

 唯一、この棺桶の呪いから映画が解き放たれているのが、無論、月面の場面であり、この月面の解放感によって、この映画は死の呪縛から男が解き放たれる巡礼の映画のように終わることもできたはずである。現に、月面で娘のイメージを改めて葬る場面が、彼の旅路の終わりを告げるシークエンスであり、それはあたかも葬儀の場面の反復のような感じを我々に与える。しかし、そうした浄化と巡礼の映画として、『ファースト・マン』は終わるわけではない。地球に戻り、まさに検疫の期間が終わろうとする時期に、ニールと妻とが再開して終わるこの映画の、その再会の手触り。ガラス越しに互いに手を触れる、その瞬間のガラスの手触りは、娘の髪をなでた幸福な手触りとはまったく異質なものであることはいうまでもない。巡礼を終えても真の幸福――ありえたかもしれないと夢想しうる幸福は決して回復されない。幸福がすでに失われ、ただ冷たいガラスの温度とともに生きるということ。それが喪のあとに生きるということなのであり、そのガラスの手触りの、無機質な冷たさのうちに宿る温度に、棺桶のなかの我々はきっと何かを賭けるべきなのだ。