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時間を弄ぶ女たちーー笹森トモエ『放課後の優等生』における「習慣」の革命

 革命が起こった。それはおよそ2年半前のことであった。しかし、その革命については、未だ多くは語られていない。その革命の内実について記すことが、この短い文章の目的である。革命を起こした書物について、まず紹介したほうがよいだろう。書物の名は『放課後の優等生』、著者は笹森トモエである*1

  我々の目の前には、日々、「出来事」が生じる。朝、目覚めて顔を洗う。これ自体ひとつの「出来事」である、といいうる。ゴミを出すために外に出、やや冷たい空気に身をさらす。駅で電車に乗りこみ、退屈しのぎに文庫本を開く。昼、少し歩いてラーメン屋に入る、云々。これ以上の列挙は避けよう。ここで言いたいのは、我々の生活はそうした「出来事」が目の前に代わる代わる現前し続けることで形作られる、ということだ。

 無論そうした些細な――絶え間ない忘却に晒される我々のそれぞれが経験するものとしての「出来事」に対して、より大きな、より多くの人間にかかわるものとしての「出来事」もあり得よう。選挙で何某が当選した、某国からミサイルが発射された、某国と某国が戦争状態になった、云々。これらは、その少なからずが、のちに共有された過去としての歴史の一ページを彩ることになる、そういう類の「出来事」である。

 歴史の教科書を紐解けば、そこにはそうしたスケールの出来事が無数に書きこまれている。だれそれが幕府を開いた、あるいは革命が起き王政が倒された、あるいは総力戦で無数の死者が出た、云々。「歴史が好きです」、と人が言うとき、それは往々にしてこうした大きな「出来事」の磁場に引かれるところがある、ということを少なからず含意しているように思われる。

 学問としての歴史学もまた、こうした大きな「出来事」の磁場に強く規定されていた。例えば、フランス革命はなぜ生じたのか。それはどのような影響をあたえたのか。こうした問いに解答を与えることが、歴史学という学問の使命であると考えられてきた。そう、かつては。

 しかし、そうした「出来事」にかかわることどもだけが、過去について問われるべき問いであるのか。そうではない。大きな「出来事」の磁場を離れ、過去に生きた人々のそれぞれの経験――先に述べた、我々が日常経験する些末な次元での「出来事」――の内実を明らかにしなければ、過去の物事を理解することはできないはずである。そうした日常――それはしばしば「習慣」と名指される――のありよう、大きな「出来事」による影響を受けつつも、より長期的なスパンで変容していくことどもが、次第に歴史学の対象となっていく。

 こうしたある種のパラダイムシフトの先駆としてよく知られるのが、フランスの歴史学会をリードしてきたアナール学派だろう。こうして、歴史学は「出来事」から「習慣」へ、その対象を拡大させるという革命を経験したのである。

 過去のものごとを研究の対象とする歴史学にとって、「習慣」はすでに生きられ終えたものであり、対象として仮構できるものではある。翻って、我々にとって「習慣」とは何か。冒頭で触れた我々の日常のありさまを想起するならば、歴史研究の対象としての「習慣」は、我々にとっては日々、いま・ここにおいてささいな「出来事」の対象として立ち現れることになる。「習慣」とは、我々が既に過ぎ去ったささいな「出来事」を抽象化・単純化して回想するにあたって、その名を与えられるものに過ぎない。そのような意味において、我々にとっての「習慣」は、いま・ここにおいては存在しえないのである。

 これは、時間にかかわる芸術――それは映画であったりアニメであったりする――にとって、「習慣」を表象するのが至難である、という事実を導く。スクリーンの上に投射される映像は、絶えず過去になっていく「いま」でしかありえず、そこに立ち現れるのはつねに「出来事」でしかありえない*2

 映画やアニメは時間と紐づいているがゆえに、「出来事」およびその集積を提示することは可能であっても、「習慣」は絶対的に提示できない。「習慣」はいま・ここを映し出すスクリーンに立ち現れることはできないのである。

 ここで、映画やアニメ以外の媒体で、「習慣」を取り出し提示することができるのか、と問うことができる。小説もまた、我々が常にある一定の文字列と不可避的に関係をもつことになるのだから、事態は映画やアニメと似通っている。しかし、マンガならどうか。時間を空間的に自在に配置することによって、映画やアニメ、小説とはまったく違うかたちで時間と関係を取り結べるマンガにこそ、「習慣」的なるものを現前させるという、ある種の倒錯した経験が映しだされえるのではないか。ここで、答えを先取りしよう。そのような仕方で「習慣」を見事にマンガにしえた達成が、笹森トモエ『放課後の優等生』所収のいくつかの短編なのだと。

 『放課後の優等生』は、性的な接触を描く成人向けマンガである。我々にとって、性的な接触は「出来事」である。それが電車に乗ることや、パソコンで文字を打つことのように、仮構された「習慣」としての性的な接触はありえても、いま・ここに縛られる我々にとっての性的な接触は、どこまでいっても「出来事」でしかありえない。故に、上述のメディアの特性を考えあわせても、アダルトビデオに収まっているのはただの「出来事」にすぎない。

 では多くの成人向けマンガではどうかといえば、それもほとんどが「出来事」としての性的な接触を描いている、といいうる。ある種のテンプレートに沿って性的な接触がひと段落ついたところで、一つの挿話が終わる。そこに描かれるのはアダルトビデオと大同小異の「出来事」である。

 しかし、『放課後の優等生』のいくつかの短編においては、性的な接触はそれ自体で一つの挿話をなす「出来事」というよりは、繰り返されることによってその差分が現前し、そこで生きられる生=性のありようが次第に変容してゆくこと、それを写し取る「習慣」として切り取られている。女たちは時間を自在に弄ぶことで「習慣」を立ち現しめ、我々はその異様な時間のただなかに置かれるのである。我々には通常「出来事」として感受される性的な接触が、「習慣」性をともなっていま・ここに現れる、そうした革命がここにはある。革命については、未だ多くは語られていない。だが遠からず、革命のとどろきは音高く響き渡り、出来事の呪縛のなかにいるものたちは恐れおののくだろう。

*1:はてなブログのガイドラインに抵触しそうなのでリンクを貼るのは避けます。各自ググってください。

*2:たとえばテレビドラマないしテレビアニメであれば、現実の時間と共犯関係を取り結ぶことによって「習慣」を仮構することは可能かもしれない。しかしそれもまた、我々が我々自身の「習慣」を仮構するのと同様、過去の「出来事」の抽象化・単純化によって捏造されたものである。