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捨てられた過去を拾い集めること――『さらざんまい』感想

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 『さらざんまい』をみました。以下、感想。

 「欲望を手放すな。未来は欲望をつなぐものだけが手にできる」

 突如現れた謎のカッパによって、カッパに変えられてしまった男子中学生三人。元の姿に戻るため、尻子玉を手に入れるために「さらざんまい」で戦う三人は、次第にそれぞれが内に抱える秘密と、あるいはもっとも切実な欲望と、対峙することになる。

 『少女革命ウテナ』の、あるいは『輪るピングドラム』の、あるいは『ユリ熊嵐』の、幾原邦彦監督の最新作は、東京スカイツリーを間近に望む浅草界隈で、カッパとして奮闘する男子中学生三人を主役に据える。奇矯な劇伴にのせて繰り返される異様なバンクシーンは『少女革命ウテナ』のようだし、主要人物以外の人間はピクトグラムないし顔のない存在として提示されるのは『輪るピングドラム』的、人間がデフォルメされたマスコット的存在にメタモルフォーゼするのは『ユリ熊嵐』の記憶を喚起する。

 そうした、おおざっぱに幾原邦彦的といっても通用するであろう演出、モチーフはこの『さらざんまい』でもあからさまに継承されていて、それはおそらく、幾原邦彦という作家がこれまで語ってきたことを、ここでもちがう仕方で反復するのだという宣言でもあるのだろう、と思う。

 これまで、幾原邦彦のフィルモグラフィのなかで、最も尊い行為、ある種の究極の愛のかたちの一つとして語られてきたことはといえば、自らの存在すべてを投げ捨てて、ほかの誰かを、誰よりも大切な誰かを、誰よりも救わなければならない人を救う、ということだったと思う。自らの存在すべてが失われてもいい、そうした決意こそが他者を救い、あるいは世界のかたちそのものを変えるのだということを、『少女革命ウテナ』の、あるいは『輪るピングドラム』の結末で語っていたように思う。

 しかし、この『さらざんまい』では中盤にしてすでに、そうしたある種の自己犠牲でもって他者を救う、という行為は、そうした可能性が提示されたうえで、しかし選びとられることはない。人間の欲望をつかさどるという「尻子玉」。それを捧げ、自身が世界から忘却されることと引き換えに、最も尊い他者を救い、そしてその他者を取り返しのつかない仕方で傷つけてしまったという過去を帳消しにするという行為は、選び取られることはないのである。

 とはいえ、『少女革命ウテナ』的、あるいは『輪るピングドラム』的な、おのれのすべてを投げ出しても、他者のためにありたい、という行為は全面的に棄却されたわけではなくて、そうした欲望のありかたへの肯定は、二人の警官、レオとマブに託されている、とはいいうる。それを伝えたら、自分自身が呪いによって消えてなくなってしまうとしても、これを伝えなければ、自分が自分であると彼に伝えることのできない言葉。彼が最も切実に聞きたいと願ったその言葉が、『輪るピングドラム』の結末において投げかけられた、極めつけに陳腐であるのにも関わらず、我々の心を強烈に揺さぶらずにはおかない言葉であったことは、彼らが過去のフィルモグラフィで語れらた価値の継承者であったことを雄弁に語っている。たとえ、それがサブプロットにすぎないとしても。

 しかし、やはり、『さらざんまい』が語るのは、そうではない価値、自らを投げ捨てるのではなく、快も苦痛も恥も秘密も晒してもなお、一緒にどこかに行きたい、あなただけでなくて、この私も救われたいという欲望の肯定なのだと思う。かつて気高き人たちは、すべてを捨て、自身が忘れられても、世界の運命を変えたいと願った。しかし、この中学生たちは、忘れたくないし、忘れられたくないと強烈に願うのだ。幾度となく反復される「欲望を手放すな」という要請。それは、あなたが幸福でいてほしい、という願いの上に、その傍らに私もいたい、そのような身勝手さを諦めてはならない、という要請なのだと思う*1

 そうして、一緒にいたいと願うことで、どうして未来が「つながる」のか。それは、偶然一緒にいること(いたかもしれないこと)は、彼が彼の捨てたミサンガを彼の知らないところで拾う、そうした可能性を生じせしめるからだ。我々は切実に、あるいはきままに、あるいは不本意ながら、あるいはうつうつと、他者と繋がってここにある。そのように不随意に過ごす時間のなかで、我々は知らず知らずのうちに、他者の捨て去った――捨て去ったことすら意識されない過去、忘却されたことすら意識されない記憶の欠片を拾い集めているのだ。そうした破片が不意によみがえり、強烈な意味がそこに宿ることがある。そうして追想されよみがえった過去は、予想もしなかった仕方で我々を導くことがある。そういう仕方で未来を形作るものとして立ち現れる過去の出来事のことを、我々は運命と呼ぶ。

 奇妙な偶然から始まった物語はこうして運命を彼らの前に垣間見せ、そうして幕を閉じる。その未来がどこに続いているのか知るすべはない。しかし、それが袋小路に行き着いたとしても、彼らはまた新たな運命を見出せばよいだけなのだ。何処かに行きたい、誰かとともにありたいと願うこと、それが次々に運命をつくりだすのだから。

 

 

さらざんまい 音楽集「皿ウンドトラック」

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さらざんまいのうた/カワウソイヤァ

さらざんまいのうた/カワウソイヤァ

 

 

 

 ぼくは幾原邦彦作品のよい視聴者ではまったくなく、作中に散りばめられた暗喩を十分に理解し語れるほど、この作品について理解はまったくしていない、でも、とにかくこれを言葉にしたかったのです。(いいわけじみててあれすね)

*1:もしかしたらこれは、『アドゥレセンス黙示録』でとっくに語れられたことなのかもしれないけれど。