宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

制服は誰にも似合わない――アニメ『放浪息子』感想

放浪息子 全6巻セット [マーケットプレイス Blu-rayセット]

 このところ、アニメ版『放浪息子』をみていました。以下、感想。

  この列島には、およそ百年来、奇妙な建物がそこかしこに林立してきた。ある一定の年齢になると、人はみなその建物にほとんど毎日通うことを義務づけられ、そこで、似通った年齢の集団で、似通った日課を、似通った所作でこなしていくことを強いられる。年齢があがるにつれ、こなすべき日課はほんのわずかに変わっていき、ある一定の年齢になった人から、また別の建物に移って、さしてかわりばえのしないことどもをこなせと要請される。おおむね、そこでは、他人と同じように区切られ課される時間だけでなく、他人と同じような服を着ることも強いられる。この建物のことを学校といい、その同じような服は制服とよばれる。時間・空間を管理され、同じような服を着させられる建物。自身の意志にかかわりなく、そこに縛られる場所。それは刑務所に似ている。だから、そこに通う少女と少年は囚われ人なのだ。しかし、彼女と彼らの道行きはいまだ決まっていない。未決囚は彷徨う、そのありふれた建物の、尋常でない磁場に縛られながら。

 志村貴子の手になる原作を、監督・あおきえい、脚本・岡田磨里の布陣でアニメ化。「女の子になりたい」、「男の子になりたい」、「女の子の服を着たい」、「大人の男性になりたくない」云々、そうした、いま・ここの自分でない何かになりたい――そしてそのなりたい「何か」は、このしみったれた世間一般が期待するそれとは大いにずれている。そうした欲望を、その具体的なかたちや、それをはっきり言い表すことばを見つけられない少女と少年。彼女と彼は、具体的な先行きを描くのでも、自身のありかたを明確に言葉にするより前に、自分の着たいと思える服を着ること、そのことによって「こうありたいと思う何か」にどうにかして輪郭を与え、それをなんとかつかまえようともがくのだ。思春期の、この自分が何者かも判然としない感覚を、こうした「服を着る」という所作に託して画に具現化させたところに、この『放浪息子』の着想の妙はあるのだろうと思う。

 原作が主人公たちが小学五年生の時点から語り始められるのに対して、アニメ版の開始地点は主人公たちの中学入学に置かれていて、それがこのアニメ版において語れることを予示しているように思える。なぜならそこは、「自身の望む服を着たい」という欲望を、あたりまえのように踏みつけにしてはばからない空間なのだから。「着たいように服を着たい」という願いは、着るべき制服を着よ、という陳腐な要請の前にくじかれる。我々の多くはその要請にさして疑問にも思わず、やがては通り一遍のリクルートスーツに身を包み、さも一人前のような顔をして、一個の労働力としてうそっぱちの生産活動に従事させられる。往々にして「自身の望む服を着たい」という欲望は、そんな欲望があったことすら忘れ去られ、それが世間一般の普通なのだからと似合わない制服を着続ける運命を背負う。

 彼女と彼らは、学校というまさにそのしみったれた世間一般を再生産し、その世間一般に安住し服従せよと要請する装置と対峙しなければならない。そうした予感は、「ありのままの君でいいんだよ」というメッセージを軽快に発しながら、しかし同時に誰もいない空虚な建物としての校舎をひたすらに映すオープニングにおいても漂っているかもしれない。制服が似合わないことすら意にもとめない人々、学校空間の要請に唯々諾々と従うことでそこにつかの間安住する人々――それはたぶん我々の似姿なのだが――は、自身の望む服を着る少女と少年をからかい揶揄する。『放浪息子』はそうした世間一般とドラスティックに対決するような物語を語らなかった。それでも、「自身の望む服を着たい」という願いは胸中に残されたのであり、それが他者にどう映ろうとも「でも、いいんだ、これで」と彼は独白するのである。この「でも」という留保のなかに、結末など想像もしようのない放浪を続けてゆくためのしたたかさが宿っているのだろうと、思う。誰にも似合うことのない制服の居心地の悪さを閑却することなく、自身に似合う仕方で服を着ることを目指す、そうした放浪に耐えるだけのしたたかさが。

 

 

 

 

放浪息子1 (ビームコミックス)

放浪息子1 (ビームコミックス)

 

 

  『リズと青い鳥』の感想の反復のような感想になってしまったなとちょっと思いつつ、しかし『リズと青い鳥』がぼくにとっていかに大きな作品なのかと今さらながらいいようのない気持ちが湧いてきます。

amberfeb.hatenablog.com