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虚構世界の存在証明――『HELLO WORLD』感想

映画  HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド

 『HELLO WORLD』をみました。以下感想。結末に触れています。

  2027年。日本。京都。グローバル企業と名門大学の産学合同プロジェクトにより、街すべてを量子コンピュータに記録しようと試みが行われているらしいが、市井の人々にはそれはさして大きな事柄ではなく、高校生は高校生然としてありふれた生活を送っていた。コミュニケーションが不得手で、読書が好きな少年は、ある日突然、奇妙な男に出会う。あからさまに世界の物理法則から遊離したその男は告げる。この世界は、量子コンピュータ上に再現された記録にすぎないのだと。未来の自分自身を名乗る男に導かれ、少年は悲劇を回避し現実とは別の記録を再現するために、京都の街を奔走する。

 『ソードアート・オンライン』の伊藤智彦監督に、『know』などで知られる野崎まどの脚本を、堀口悠紀子の手になるキャラクターが演じる。京都というロケーションを、堀口悠紀子のキャラクターが動き回っているそのこと自体が、否応なしに強烈な文脈と重力をまとうが、そのことはひとまず措こう。

 グラフィニカの3DCGによって描画されるキャラクターは、作画的なキュートさをまとっていて、それがルックの魅力につながっている。だが、止め画ではほとんど作画と見分けがつかないカットもある一方で、その動作となると、作画ほどなめらかな印象は与えない。どうも所作には、なんとなく人形が動いているような、ぎこちないものに感じられる。

 しかしおそらく、作り手はこのキャラクターたちを、作画のようになめらかに動かそう、という意思を貫徹させようとはしていなかったのだろう、と思う。なぜならばそのぎこちなさ、世界そのものの作り物っぽさを、最後の最後で梃子としてもちいて、我々にこの世界のありさまを見せてくれるのだから。このはったりのきいたオチは、いかにも野崎まど的なものではあるのだが、その野崎まど性を映像というメディアにユニークな変数を用いて語ったところに、この『HELLO WORLD』のおもしろみの一つはあるのだと思う。

 この結末は、現実という環境において人間が生きるためにこそ、フィクションが奉仕する、つまり現実のほうがフィクションよりも価値を持つ、そのような仕方で我々とフィクションとの関係を語っているようにも感じられる。彼と彼女の冒険は、現実世界において有用だからこそ意味がある、というニュアンスを読み取っても牽強付会にはなるまい、とも思う。

 そしてそれは、記録されたデータとしての虚構が、その虚構そのものとして、ヒロインを虚構の圏域に連れ戻すために奔走する中盤の展開を裏切っているようにも思える。物語の半ばで、虚構であろうがなかろうがその身に宿す真実性のようなものが物語を駆動し、まさにフィクションがフィクションであることそれ自体において価値がある、と謳いあげ、そこに強烈に感情移入させた作劇は、最後の最後でそれもまた現実世界の「彼」のために過ぎなかった、という形で転倒させられてしまうのだから。

 しかし、そのような事態を見事に救ってみせたのは、虚構としてのアニメであった。現実と虚構があいまいであり、量子コンピュータ上で再現された記録世界が無数の入れ子上になっているようにも思えるこの作品世界で、最後の最後に、「新たな世界」の現実性を担保するのが、他ならぬ虚構として我々が日々親しむ、二次元的なアニメであるというこの倒錯。

 たとえば現実世界を、まさに現実の人間たちに実写で演じさせる、という方策はありえただろう。それは「現実世界への帰還」というモチーフを伝える一手段としてありえるのだが、そんな演出がなされていたならば、この『HELLO WORLD』は現実がフィクションを奴隷化するくだらん茶番劇に堕していただろうし、だからこそこの現実は、この一つの虚構たるアニメによって画面に映し出されなければならなかった。この倒錯こそ、『HELLO WORLD』が入れ子上にたがいを包摂しあうがごときフィクションの重力圏に留め置いたのであり、少年少女の冒険が、それ自体の手触りで価値を持つ、そのような新たな世界を守り抜いたのである。

 

 

 

 

HELLO WORLD (集英社文庫)

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