宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

ただ自分のためだけにコメディを演じること――『ジョーカー』感想

Joker (Original Soundtrack)

 『ジョーカー』をみました。以下感想。

  男がいた。男は発作的に笑いだすのを止められなかった。男は人を笑わせたかった。テレビに映るコメディアンのように、人を笑わせ、喝采を得たかった。しかし、それはかなわなかった。人は彼をみて笑いはしても、それは喝采とは程遠い嘲笑に過ぎなかった。男は決意した。ただ自分自身を笑わせるためだけにコメディを演じることを。

 社会すべてに見捨てられた男、アーサーが、ジョーカーという存在として立ち現れるまでの物語を、ホアキン・フェニックスを主役に据えて語る。アメリカンコミックの悪役を、スコセッシ『キング・オブ・コメディ』ないし『タクシードライバー』への露骨な目配せで、しかし堂々と語ってみせたこの映画の立ち位置は、かつてクリストファー・ノーランが、マイケル・マン『ヒート』の文脈にヒーローとヴィランとの抗争を置きなおすことで超絶傑作映画『ダークナイト』を作り上げたことを想起させるが、『ジョーカー』においてはアメコミ的な感触ははるかに後退している。

 画面には虚実が入り交じり、本物のように画面に映った事柄すらもどうやら信用してはいけないらしいという格率が支配する。この映画を語ることは、この映画に語り手が何を投影しているのか、ということをあらわにする。あらゆる語りがそのような性質を帯びるにせよ、アーサーという男に何をみるのか、というのは、そこに解釈の余地が大きく存在するがゆえに、語り手の欲望が前景化しやすい、という気がする。

 そんなエクスキューズは措くとして、この『ジョーカー』は、徹頭徹尾救われない男が、いかにして自身を救おうとするのか、という映画であって、かつほんとうには救われることなどありはしないのだ、ということを語った映画であったという気がする。復讐を遂げ、さながら貧しい大衆のルサンチマンの具現ともいうようなアイコンとして歓呼をうけようが、そこに一片の救いもおそらくはないのであって、救われないからこそ、彼はこの後もただひたすらに、世界の倫理などというものなど構いもせず、ただ自分自身のためにコメディを演じるのだろう。