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天才の音が鳴っている――『蜜蜂と遠雷』感想

映画「蜜蜂と遠雷」 ~ 河村尚子 plays 栄伝亜夜

 『蜜蜂と遠雷』をみました。原作からはるか高みに見事に飛んだ快作だったと思います。以下感想。

  かつて天才とよばれた少女がいた。母とともにピアノと戯れるとき、世界は音の楽しさに満ち満ちていた。しかし彼女の世界から母が去り、音の楽しさもまた遠ざかった。遥か彼方でなっているかもしれない、遠雷のごとき世界の響きを、彼女は再び取り戻せるのか。

 国際ピアノコンクールを舞台に、4人のコンテスタントの四者四様の闘いと、天才が巻き起こす波紋とを描いた恩田陸の原作を映画化。映画化にあたって登場人物や挿話は大胆に切り詰められ、松岡茉優演じるかつての天才少女、栄伝亜夜の中心にストーリーが再構成されているが、この脚色の妙がこの映画に映画としての風格をまず与えたのだということは間違いなかろう。

 原作については、直木賞の際の高村薫の評がまあすべてであろうという気がしていて、登場人物の深みのなさ、「天才」という存在の軽さ、そして比喩に比喩を重ねた音楽描写によって結局音楽が立ち上がってこない、こうした点が小説としての快を大きく損ねている。これが最高傑作と銘打たれて宣伝される作家の不幸を思うといささか不憫ではあり、長期の連載を経た大御所の作品を是が非でも売らねばならぬ出版社の努力にしてもほんの少しのつつましさでもあればよかろうと思う。

 しかしこの映画は高村の指摘した欠点はおおよそ克服されているといって差支えなかろう、と思う。それはテクストとちがって空気を振動させ音を生み出す映画というメディアによるところも少なくないが、何より、テクストの上では空疎な天才にすぎなかった栄伝というキャラクターが、松岡茉優という本物の天才の身体と表情を得て、いかにも軽やかに天才としての内実を備えてしまった、というのが何よりも大きいのだと思う。

 クールな画作りもはったりの効いた音も、見事に松岡という天才に奉仕している。原作で天才として喧々諤々の議論を巻き起こす台風の目として描かれた天才少年、風間の挿話を大胆に削り、あくまで栄伝のドラマの添え物とした脚色はまったくもって正しい。なぜなら松岡という天才がいる以上、この映画にとって天才性を真にまとった天才が誰であるかは甚だ明白であるからだ。この映画は天才の音が鳴っている。それは疑いようのない、得難い奇跡のひとつであろうと思う。

 

 

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

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 恩田陸、『六番目の小夜子』とか『夜のピクニック』みたいな青春小説はかなり好きなんすよね、なかば思い出と化していてディティールの記憶はほとんどないのだけど。いま読み返したらどうなのかしら。

夜のピクニック (新潮文庫)

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六番目の小夜子 (新潮文庫)

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