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愛を語るためのたったひとつの方法――舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』感想

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

 舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』をこのところ再読していて、やはり舞城にとっては現状、これが最高傑作だろうという確信を深めました。以下感想。

  愛とか勇気とか希望とか、みんなそれってまあ大事っすよね~って思ってる気持ちとか概念みたいなやつがあるじゃん。あるじゃないすか。でもそういうのって、いざ「愛って大事だよね~」みたいな言葉にすると、え???そうだけども…ゎらwみたいになりがちだし、なんかそういう言明をわざわざするやつってどうにも胡散臭いっていうか、うわ、こいつなに企んでんだろ、みたいな疑いの目を向けちゃうし、その疑いの目は結構正しいことが多かったりする。

 そうなると愛とか勇気それ自体も陳腐なものに思えてくるけれど、実際はそんなことはなくて、そういう愛とか勇気とかに導かれたんだろうなという行いとか振舞いとかをみると、うわ勇気かっけえじゃん、大事じゃん、ってなる。となると、やっぱり愛とか勇気みたいなものは大事だから、その大事さみたいなものをなんとか言葉のかたちにしたい、みたいな気持ちが湧いてくる。そこで、そういう愛とか勇気とかめちゃ大事なんだぜ、と陳腐にならず詐欺めいた雰囲気をまとわずに語る方法の一つとして、フィクションというものが存在するのだ。

 おそらくそれは、舞城王太郎という作家を動かす使命感のようなものでもあるのだと思う。かつて、彼は作中で作家にこう語らせている。

ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。*1

ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたものに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこで嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。*2

 上で引用した舞城のデビュー二作目である『暗闇の中の子供』の一節は、そのまま舞城自身の論理と倫理とを直截に語った、自身に対する批評としても読んでいいだろう。『暗闇の中で子供』が刊行から長い月日を経て未だ文庫化されないのは、そこにあからさまな自己開示が書き込まれているからなのだ、と勘繰ってみてもいい。

 そうした事情はさておくとして、舞城王太郎が「ムチャクチャ本当のこと」を語るために選んだ「嘘」の形式は探偵小説で、これは彼が語りたい「ムチャクチャ本当のこと」を語るために必然的な方法だったのだろうと思う。探偵という装置がテクストのなかに現れるとき、それは基本的にはテクストのなかに散りばめられた「文脈」を適切に再配置し、ある種の秩序を与えることで、「謎」として立ち現れた物事どもを解体する、という役割を果たすことになる。それによって往々にして悪の所業は暴かれる。

 無論、これだけ無数の探偵小説が世にあるのだから、無数の例外がそこに存在することは認めるにせよ、探偵小説における探偵は、極めて理念化された善の形象である、ということは言いうると思う。だから、この時間と空間とを自由自在に駆け巡る『ディスコ探偵水曜日』においてさえ、主人公はあくまで探偵という役割を与えられなければならなかったのだ。

 弱者=子どもが無限に虐げられる未来のディストピアと対決する、子どもを救う探偵の物語。それは愛と勇気は、いつだって悪と戦い続けるのだ、悪と戦い続けることこそに愛と勇気が宿るのだと語る。愛と勇気にわずかでも明確な輪郭を与えるために、この決して短くはない『ディスコ探偵水曜日』は書かれたのであって、無駄とも思える文脈の積み重ねの細部にこそ「メチャクチャ本当のこと」どもは宿っている。だからその素晴らしさについてここで語ることはほとんど無意味なのだが、それでもムチャクチャ本当のこと、愛とか勇気とかのために書かれなければならなかったこの小説のために、ここになにがしかのことを書いておくことは、少なくとも僕にとっては何か意味あることなのだと信じよう。とりあえず。

 

 

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

 
ディスコ探偵水曜日(中)(新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日(中)(新潮文庫)

 
ディスコ探偵水曜日〈下〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉

 

 

amberfeb.hatenablog.com

*1:『暗闇の中で子供』p.34

*2:『暗闇の中で子供』p.35