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誰のために戦うの?——『ぼくらの7日間戦争』感想

劇場版アニメ ぼくらの7日間戦争 (角川つばさ文庫)

 『ぼくらの7日間戦争』をみたので以下感想。

  宗田理による『ぼくらの七日間戦争』を現代を舞台に脚色しリメイク。監督は 村野佑太、脚本は大河内一楼。原作の出版年は1985年。舞台を現代に移したことでスマートフォンSNSなど現代的なガジェットが登場し、それらを活用して少女・少年たちは危機に立ち向かったり危機に陥ったりしていく。

 だがそうしたガジェットが現代性ないし批評性のようなものを帯びている様子はない。おあつらえむきの「隠された意外な過去」を暴露するための道具として、SNSが利用されるわけだが、そうした過去によってキャラクターに奥行きや深みのようなものが付与されるかといえばそんなことはなく、ただいたずらに記号的なキャラクターの記号性が強化されるにすぎない。

 アニメのおもしろさの一つは、単に記号にすぎなかったキャラクターが、時間を重ねるごとにその記号性を裏切るような奥行きのようなものを(時としてこちらが勝手に)読み込んでしまうことだと思う。たわいのないやりとりや些細なしぐさに込められた何がしかの意図のようなものが捏造され、それが単なる記号を超えてある種の内面や個性のようなものがにじんでいく、そのような快。

 しかしこの『ぼくらの7日間戦争』では、キャラクターたちはどうあっても記号であることをやめることなく、物語の展開に奉仕するために過去をさらされたり恥ずかしい振舞いにおよんだりすることを強いられているように思える。冒頭、少年が普仏戦争におけるガンベッタの挿話を唐突に仲良くもないクラスメイトに語らなければならなかったのは、クライマックスの展開の伏線を用意する必要があったからに違いないのだが、しかしその伏線のために、少年は場違いで空気の読めない愚かな人間にならざるを得なかったのだ。あるいは果たして、少年の失恋という展開を用意するためにこそ、少女は少女に懸想していたのかもしれず、そこで発生する何がしかの関係性に百合という名を与えることは、当人にもおおよそその形をつかみがたいような、他者へと向けられる感覚と感情との綾と機微とを名指すためにこそ用いられるべきその名への恥ずべき冒涜というべきである。

 だから少女と少年が戦うべきは、記号的に仕立てられた悪役たる男ではなく、むしろそのような記号性を要求してくるこの作品そのものなのであり、抵抗という契機を適当に棚上げして無害化し、怠惰な記号の戯れに終始したこの物語を疑問をもつことなく是としてしまう我々の感性なのだ。

 

 

ぼくらの七日間戦争

ぼくらの七日間戦争

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

劇場版アニメ ぼくらの7日間戦争 (角川つばさ文庫)

劇場版アニメ ぼくらの7日間戦争 (角川つばさ文庫)