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思春期の全能感、あるいは21世紀の偉大なる小市民——米澤穂信論のための覚書

巴里マカロンの謎 (創元推理文庫)

 先日、米澤穂信の〈小市民〉シリーズの新刊、『巴里マカロンの謎』が刊行されました。めでたいことです。以下、それにかかわることを書き留めておきます。

  米澤穂信は、かつて笠井潔と行った対談の中で、デビュー作の『氷菓』で書きたかったことは「思春期の全能感」だったと述べている*1

 「思春期の全能感」。それは『氷菓』から始まる〈古典部〉シリーズで演じられる、ある種の特別さをめぐるゲームを読み解く際の補助線になるだろう。〈古典部〉シリーズにおけるキャラクターをおおよそ二つに分類するとしたら、この「思春期の全能感」への意識と態度で大きく分けてもよいかもしれない。

 「思春期の全能感」に酔い、自身は物事のありようを正しくとらえており、自身の介入によって物事を適切な仕方で解決することができると無意識的に信じているタイプ。これは『愚者のエンドロール』における羽場ら「脚本家」たち、あるいは『クドリャフカの順番』の谷惟之に象徴されるといえる。

 一方が、その「思春期の全能感」をメタ的に自覚しているタイプ。こちらを象徴するのが福部里志であることは言うまでもない。「思春期の全能感」に酔うものたちが、自身がこの世界における主人公であると信じて疑わない(ようにみえる)のに対し、福部里志は自身がこの世界で主役たりえないことをすでに知っている。

 テクストを読む我々は、この作品世界において主役の条件はすなわち「探偵」的なるものたる条件でもあることを知っている。それはこのテクストがミステリというジャンルの磁場のなかに置かれていることを、テクストの外の環境によって知っているからだが、福部里志というキャラクターもまた、主役の資格が探偵たることによって与えられることを、奇妙なことではあるが、なぜか知っているようにも思える。だから、探偵の資格のないものが探偵としてふるまおうとするのを眺める彼の目線は、極めて冷たい。

 しかしそうして「思春期の全能感」に身を任せまいとする福部里志すら、『クドリャフカの順番』では脇役の分を超えて探偵的にふるまおうとすることに、この「全能感」の呪縛の強烈さをみないわけにはいかない。こうして、「思春期の全能感」は遅かれ早かれ、その蹉跌へと彼・彼女らを導いてゆく。そこにおいて、一つの思春期は終わる。その瞬間を極めて鮮烈な仕方で書き込んだのが、〈古典部〉シリーズの(今となっては)ありうべからざる結末の可能性の一つであった『さよなら妖精』だといえる。

 

 さて、米澤穂信という作家は、「思春期の全能感」を扱うにあたって、〈古典部〉シリーズとは異なるアプローチでテクストを紡いでもいる。それが小鳩常悟朗と小佐内ゆきとを主役に据えた〈小市民〉シリーズであり、「小市民」とは、ほとんど「思春期の全能感」との関係性で定義される称号だといってもいいのである。

 現在のところ高校生である彼らにとって、「思春期の全能感」的なるものは中学時代にそれぞれの仕方で失敗を導いた、失敗の原因として自覚される。「小市民」とは、互いが「思春期の全能感」に惑わされないためにまとった鎧の名なのである。それは福部里志が「データベース」を自称することに似るが、「小市民」という言葉には、「データベース」という語のフラットさに対して、ある種の保守性と空虚な無内容さが響く。その虚ろな感触がむしろ、彼女と彼とにより自制を強いるのかもしれない。

 彼女と彼もまた、おそらく福部里志のように、「思春期の全能感」に酔う「探偵」たちを冷ややかなまなざしでみつめる。この〈小市民〉シリーズで、不幸な「探偵」役に割り振られるのは、『秋季限定栗きんとん事件』の瓜野高彦だろうが、彼もまた、『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番』で現れた「探偵」気取りの脇役たちと同様の運命をたどる。

 しかし、小市民二人が福部里志とまったく異なる位相にいるのは、彼女と彼はテクストにおいて「探偵」たれと要請される位置に置かれていることであって、故に「小市民」というある種の空疎な自認が、むしろ「名探偵」の別名として機能することになりはしないか、という危惧もある。偉大なる小市民の道行きは、来るべき冬に託されているのである。

 

 しかし――言うまでもないことではあるのだが――その冬がいつ訪れるのか、知るものは誰もいない。『巴里マカロンの謎』が〈小市民〉シリーズの11年ぶりの新刊であることからも予感されるように、秋の続きは永遠に繰り延べされるのではないか、という見立てはそれほど意外性がないようにも思われる。

 では、〈小市民〉シリーズがここまで書かれなかったことは何故かといえば、それは無論推測以上のものではないのだが、米澤穂信という作家のなかで、「思春期の全能感」というモチーフへの興味が後退したことを、その要因の一つと見立てることは可能だろう、と思う。

 「小市民」という称号は、「思春期の全能感」との関係性で定義されうる、と先に書いた。近年の作品のなかではむしろ、その「思春期の全能感」を喪失した後こそが主題となっていると感じる。たとえば、『いまさら翼といわれても』所収の「私たちの伝説の一冊」は、圧倒的な才能を前にして「思春期の全能感」と決別しなければならなかった少女二人が、それでも何かを描くことを決意する物語だった。ここですでに、「思春期の全能感」は過去の出来事にすぎないのだ。

 しかし小市民たちは未だ、思春期の全能感の重力圏のなかにいる。だからこそ、ここでの賭金はいやおうなしに高く積まれているといえる。21世紀の偉大なる小市民、それは思春期の全能感の愚かさと、しかしそれと裏腹の心地よさとを、どうにか消化して救う、そのような使命を帯びているのだ。

 

 

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米澤穂信と古典部

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春期限定いちごタルト事件 (創元推理文庫)

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*1:ユリイカ 特集 米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険』青土社、2007年、77頁。